初級翻訳・ばけものばなし 第4話

ばけものばなし

一つ目の本当の面白さは、なんだかぬるっとしていて、ちょっと人間離れした奇妙な赤ちゃんのような、何とも言えない気味の悪さの中にあるんだ。

そもそも、日本の妖怪が持つ「すごみ」や「恐ろしさ」の正体は、まさにそういうところにある。このことについては、またあとでもう少し詳しく考えてみることにしよう。

ともかく、一つ目の味わいというのは、妙に生きていそうな、ぞっとするような気味の悪さの中にあるんだ。

背が低くて、頭がびっくりするくらい大きくて、肌は真っ白で、口がまっかっか。
こういう奴は、もしかしたら現実のどこかに本当にいそうな感じがするんだよね。

そもそも「目」というものは神秘的なものだ。近代フランスの美術界でとても有名だったルドンという画家も、一時期、絵の中に目の玉をたくさん描いていた。
大きな目の玉だけが、空に太陽のようにピカッと光っているような絵もあったけれど、そこには何とも言えない神秘的で変な夢の中のような雰囲気がしっかりと捉えられていたんだ。

彼は、一つ目をもっとハッキリと、自分の表現したいものとして描き出していたと言えるだろう。
だけど、東洋の一つ目の方が、どうしてだかよりリアルで、何とも言えない濃い味わいがあって、より一層気味が悪いとぼくは思うんだよ。

日本妖怪の持つ「病気のような雰囲気」

日本妖怪が醸し出す雰囲気は、大体においてどこか病的なところがある。前のところで、一つ目小僧の雰囲気が「奇形児」に似ていると書いたけれど、古い絵巻物の中に、まさにそういう妖怪が描かれているのを江馬務(えまつトム)さんの本の中で見たことがある。
それらの妖怪は、まるでアルコールに漬けられた奇形児のようだった。

このことを見ると、昔の人は妖怪を表現するために、自分が実際に目にした病気の人や体の不自由な子供をヒントにして、その形を借りたんだな、と考えることもできる。だけどぼくの考えでは、それはちょっと頭でっかちの理屈すぎやしないかと思うんだ。

もちろんそういう面も少しはあるだろうけれど、ぼくの言いたいのはこうだ。「何か気味の悪いものを描こうとすると、どうしても『病人』の雰囲気がにじみ出てきてしまうものだ」ということなんだ。世の中の退廃的な気分が形になろうとすれば、どうしても、この現実世界に存在する本当の意味での退廃、つまり病気や、体の奇形、あるいは不自由といった姿とぴったり一致してくる。
それが一つの自然の法則なんじゃないかという気がするんだよね。

日本妖怪の面白さは、生きものが持つ「気味の悪さ」をそのまま活かしているところにある。
人は美しい女性の髪を見て「なんてきれいなんだ」と思い、その腕を見ては色っぽく感じるものだろう。だけど、どんなに美しい美人であっても、もしその髪の毛が頭からバッサリと切り落とされて床に落ちていたり、腕や足が体からちぎれてそれだけがポツンと転がっていたりしたら、それは間違いなくものすごく気味が悪いものだ。

そんな風に体から離れて落ちていなくたって、ただ「腕」や「足」というものだけをじっと見つめていると、そこにはなんだか生きもの特有の気味の悪さが感じられるものなんだ。

その「気味の悪さ」の本質を、日本の妖怪を描いた作者たちはしっかりと掴んでいるんだよ。
壁から突然手が飛び出してくるという話は『旧約聖書』にもあるけれど、日本のトイレや天井からニョキッと出てくる手は、本当にぞっとするほど恐ろしい。

おなじみの『四谷怪談』に出てくるお岩様の幽霊は、頭で考えて作られた作品だから、実はそんなに怖くない。
「怖くしてやろう」という作り手の意図のほうが、本当の恐ろしさのリアルさよりも先に見えてしまっているからなんだ。だけどその物語の中に、ただ一つだけ、洗い桶の中から青白い手がスーッと出てくる場面がある。
あれはちょっと「妖怪の怪しさ」が出ていて、『四谷怪談』の中では唯一の、ゾクッとするような味わい深いところだろうね。

『源平布引の滝』というお芝居で、女の人が体から腕を生み出したと言って、その青白い腕が舞台の上をしきりに動き回る場面があるけれど、あれもなかなかにグロテスクで不気味だ。

こんな風に、日本の妖怪たちは、体から切り離された手足といった部分を、ものすごくリアルに生々しく取り扱っているんだ。
これらもすべて、「病的な感じ」や「体の不自由さからくる不気味さ」なんだよ。

ともかく、日本妖怪の味わいというのはだいたいにおいて、生々しくて、病的な感じがして、どこか衰え腐っていくような生きものの雰囲気をまとっている。ある種の妖怪は、ハンセン病を思い出させるように、鼻などがなくなってツルツルしている。
これなんかは、本当に最高に気味が悪い感じがするよね。

一つ目小僧なども、まさにその仲間の一つだと言えるだろう。
また、「のっぺらぼう」、あるいは「ぞべら」と呼ばれる妖怪がいる。
ある時はものすごく美しいお姫様や、奥女中みたいな上品な後ろ姿をしているのに、それがふとこちらを振り返ると、目も鼻も口も何ひとつない、真っ平らな顔をしているというものだ。
その姿かたちはいつも同じとは限らないけれど、とにかく顔にあるべき「目・鼻・口」というパーツをすべて持っていない妖怪なんだ。これもまた、一種の「奇形的な感じ」や「病気のような不気味さ」を持っている。
実に気味が悪くて面白い味わいだ。

そのほかにも、「撞木娘(しゅもくむすめ)」というのがあって、見かけは美しい町の娘なんだけれど、顔がちょうど「撞木(しゅもく=鐘を叩くT字型の道具)」の形をしているんだ。つまり、T字の横棒の両端に目がついていて、真ん中に赤い口があり、鼻はないというものなのだ。撞木鮫(しゅもくざめ)という魚に似ていて、やっぱり体全体が真っ白で気味が悪いものも、これらと同じようなゾッとする感じを持っています。

ぞべらも、その撞木娘(しゅもくむすめ)も、どちらもきれいに着飾った若い娘の姿をしていることが多いのですが、それがまた、なんともいえない底知れぬ不思議な不気味さを醸し出していると思うのです。

**狐にばかされるという事の合理的の解釈**
**附 狐附きの考**

これは、ほかの誰かもすでに思いついていることかもしれませんが、ぼくが自分なりに筋道を立ててみて、「これなら納得できる」と思えたので、ここに書いてみることにしました。

狐にばかされるという事実は、実際に起こることなのでしょう。
しかし、そういった不思議な結果が起きるからといって、その本当の原因を実際に狐が引き起こしているわけではありません。
一言でいうと、これは「自己催眠による、日本特有の特別な現象」だと言うことができます。

つまり、一時的に正気を失ったようなおかしな行動をとってしまう、一種のぼんやりとした病的な状態――こういう現象は、日本に「狐が人を化かす」という言い伝えが広まるより前の時代にもありましたし、そもそも狐が化かすなんて話をまったく知らない外国にも、間違いなく存在する現象なのです。

この状態に入り込むのは、どうやら一種の催眠術にかかるのと同じ仕組みのようです。

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