初級翻訳・ひかりの素足 第3話

ひかりの素足

大丈夫だからさ、なあに、あと一里もないんだから」
一郎も息をはずませながら言いました。
けれども、実際ふたりとも急がずにいられなかったのです。
目の前もくらむほどに急ぎました。
あまりにも急ぎすぎたので、それは長くは続きませんでした。
雪がいよいよひどくなって、前を行く方も行く手もまるで見えず、ふたりのからだもまっ白になりました。
そして楢夫が泣き出して、いきなり一郎にしがみつきました。
「戻ろうか、楢夫。戻るか?」
一郎も困ってそう言いながら、やってきた下のほうをちょっと見ましたが、とてももう戻ろうとは思えませんでした。
なぜなら、来たほうがまるで灰色で、穴のように真っ暗に見えたからです。それにくらべては、峠のほうは白く明るく、おまけに坂の頂上だってもうすぐでした。
そこさえ行けばあとはもう十町(約一キロ)もずっと丘の上で平らでしたし、来るときは山鳥も何度も飛び立ち、木の枝には赤や黄色の実もあったのです。
「さあ、もう一息だ。
歩くんだ。
上まで行けば雪も降ってないし、道も平らになる。
歩くんだ、怖がらなくていいから歩くんだ。
あとからあの人たちも馬を引いて来るし……ほら、泣かないで、今度はゆっくり歩こう」
一郎は楢夫の顔をのぞき込んで言いました。
楢夫は涙を拭いて笑いました。
楢夫のほっぺたに雪のかけらが白くついて、すぐに溶けてなくなったのを、一郎はなんだか胸が締めつけられるように思いました。
今度は一郎が先頭に立って登りました。
道ももうそんなに険しくはありませんでしたし、雪も少し薄くなったようでした。
それでも、ふたりの雪沓(ゆきぐつ)は早くも一寸(約三センチ)ほども雪に埋まりました。
だんだん頂上に近づきますと、雪をかぶった黒いごりごりの岩がたびたび道の両側に出て来ました。
ふたりは黙って、できるだけ落ち着くようにして、一歩一歩登りました。
一郎はバタバタと毛布を動かして、体から雪を払ったりしました。
そして、うれしいことに、もうそこが峠の頂上でした。
「来た、来た!
さあ、あとは平らだぞ、楢夫」
一郎は振り返って見ました。
楢夫は顔をまっかにしてはあはあ言いながら、やっと安心したように笑いました。
けれども、ふたりの間にも細かな雪がいっぱいに降っていました。
「馬もきっと坂の半分ぐらいは登ったな。
大声で呼んでみようか」
「うん」
「いいか、いち、に、の、さぁ――おおい!」
声がしんと空へ消えてしまいました。
返事もなく、こだまも来ず、かえって空が暗くなって、雪がどんどん舞い降りるばかりです。
「さあ、歩こう。
あと三十分で下りられるからな」
一郎はまた歩き出しました。
急に空のほうでヒィウと鳴って風がやって来ました。
雪はまるで粉のように、煙のように舞い上がり、苦しくて息もつけず、着物のすき間からひやひやと体に冷気が入り込みました。
兄弟は両手を顔にあてて立ち止まっていましたが、やっと風がすぎたので、また歩き出そうとするとき、今度は前よりも一層ひどい風がやって来ました。
その音はおそろしい笛のようでした。ふたりの体も曲げられ、足もとをさらさらと雪が横に流れていくのさえわかりました。
峠の頂上は、まったくさっき考えていたのとは違っていたのです。
楢夫はあんまり心細くなって、一郎にすがりつこうとしました。
また、後ろを振り返ってもみました。
けれども一郎は風がやむとすぐ歩き出しましたし、後ろはまるで暗く見えましたから、楢夫は本当は声を立てたいのをこらえて泣くばかり、よちよちと兄に追いついて進んだのです。
雪はもう沓のかかとまでいっぱいでした。
ところどころには吹きだまりができていて、やっと歩けるぐらいでした。
それでも一郎はどんどん進みました。
楢夫もその足あとを一生懸命ついて行きました。
一郎はたびたび後ろを振り返ってはいましたが、それでも楢夫はおくれがちでした。
風がヒュウと鳴って、雪がパッと冷たい煙を上げますと、一郎は少し立ち止まるようにし、楢夫は小刻みに走って兄に追いつきました。
けれども、まだその峰の道を半分も来てはいませんでした。
吹きだまりがひどく大きくなって、たびたびふたりはつまずきました。
一郎は一つの吹きだまりを越えるとき、思ったより雪が深くて、とうとう足をすくわれて倒れしまいました。
一郎は体や手についてすっかり雪だらけになりながら、引きつるように笑って起き上がりましたが、楢夫は後ろに立ってそれを見て、怖さに泣きました。
「大丈夫だ。
楢夫、泣くな」
一郎は言いながらまた歩きました。
けれども、今度は楢夫が転んでしまいました。
そして、深く雪の中に手を入れてしまって急に起き上がることもできず、おじぎをしているときのように頭を下げたまま、そのままで泣いていたのです。
一郎はすぐ走り戻って抱き起こしました。
そしてその手の雪を払ってやり、それから、
「さあ、もう少しだ。
歩けるか?」
と尋ねました。
「うん」と楢夫は言っていましたが、その目は涙でいっぱいになり、じっと向こうの方を見つめ、口はへの字にゆがんでいました。
雪がどんどん落ちて来ます。
それに風が一層はげしくなりました。
ふたりはまた走り出しましたけれども、もうつまずいてばかりでした。一郎が転び、楢夫が転び、それに今はもうふたりともちゃんと道を歩いているのかどうかもわかりません。前にはなかった黒い大きな岩がいきなり横の方に見えたりしました。
風がまたやって来ました。
雪はちりのよう、砂のよう、煙のよう。楢夫はひどくせき込んでしまいました。
そこはもう、道ではなかったのです。
ふたりは大きな黒い岩につきあたりました。
一郎は振り返って見ました。
ふたりの通って来たあとは、まるで雪の中に掘った溝のようにまっすぐついていました。
「道まちがった。
戻らないばわがねぇ……」一郎は言葉を発すると、急に楢夫の手をとって走り出そうとしましたが、ほんの一歩進んだだけですぐに雪の中に倒れてしまいました。
楢夫はひどく泣き出しました。
「泣くな。
雪がやむまでここにいるんだ、泣くな。」
一郎はしっかりと楢夫を抱きしめ、岩の陰に立って言いました。
風がもう、まるで気が狂ったかのように吹きつけてきました。
息もできないまま、ふたりはどんどん雪をかぶっていきました。
「いやだぁ。
いやだぁ。」
楢夫が泣きながら言いました。
その声も、まるで引き裂くように風がどこかへ持って行ってしまいました。
一郎は毛布を広げ、マントのようにして楢夫をぎゅっと抱きしめました。
一郎は、このときはもう、本当にふたりともこの雪と風の中で死んでしまうんだと思いました。
これまでのいろいろな出来事が、まるでくるくると回る灯籠(とうろう)のように目の前に浮かんできました。
お正月にふたりが本家によばれて行って、みんながミカンを食べたときのことです。楢夫がすばやく一つ食べてしまい、さらにもう一つ取ろうとしたので、一郎が「いけないよ」というように目で厳しくしかったのでした。そのときの楢夫の、霜やけの小さな赤い手などが、一郎にはっきりと見えてきました。
息が苦しくて、まるで喉が焼けるような毒を飲んでいるかのようでした。

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