日が暮れるまでは影も形もないのに、夜になるといつの間にか現れて、ガラスにピタッと貼り付いたまま、ちっとも動きません。
朝、出かける時に見ると、もうどこにもいないのです。
「一晩中あそこに貼り付いていて、朝の光と一緒にパッと消えてしまうんじゃないか」なんて考えたこともありました。
暗闇坂を下りきった角のところに、「荒物屋(あらものや)」という日用品を売るお店があります。
このお店は、ぼくが今の場所に引っ越してくる少し前に新しくできたそうです。
毎日そこを通るので、お店の様子はもちろん、坂道に面した裏口の竹垣(たけがき)ごしに、家の中の様子もいつの間にかわかるようになりました。
主人は50歳を過ぎた、優しそうな男の人です。でも奥さんも同じくらいの年で、顔色は青白く、なんだかトゲトゲした感じの嫌な顔だな、と初めて見た時から思っていました。
夫婦のほかには、22、3歳くらいのひょろっと背が高い息子さんと、いつもきれいな日本髪に結っている18、9歳くらいの娘さん、それに真っ黒な猫が一匹いるようでした。
おじさんと息子さんは、時々お店の商品にたまったホコリをパタパタとはらっています。
奥さんや娘さんが台所で働いているのを裏口から見かけることもありましたが、日がたつにつれて、この家全体がなんだかどんよりと暗い雰囲気(ふんいき)なのが気にかかるようになりました。
奥さんは時々、ハチマキをして髪を振り乱しながら、とても苦しそうに洗濯をしていることがありました。
流し台でお皿を洗っている娘さんの寂しそうな顔も、いつも暗く沈んでいるように見えました。
2、3か月が過ぎたころ、息子さんの姿をお店で見かけなくなりました。おじさんは前よりも忙しそうにホコリをはらっていましたが、それでも相変わらず穏やかな顔をしていて、この人だけは家の中に忍び寄る不幸に気づいていないかのようでした。
そのうちに、ヤモリも姿を見せなくなりました。
冬がやってきて冷たい風が吹き荒れるある夜、散歩の帰りに暗闇坂の近くまで来ると、ぼくの数メートル前を、肩をすぼめてうつむきながら歩く日本髪の女の人がいました。
ほとんどのお店はもう閉まっていて、砂ぼこりが舞う寂しい道をトボトボと歩いていく彼女の後ろ姿は、とても心細そうに見えました。
向こうからやってきたおばあさんとすれ違った時、二人は急に立ち止まりました。おばあさんが「おや、久しぶりだね。体の方は少しは良くなったのかい?」と声をかけます。
振り向いた顔を見ると、やっぱりあの荒物屋の娘さんでした。
彼女は寂しそうに少しだけ笑って、消え入りそうな声で何かを答えましたが、激しい風の音にかき消されて聞こえません。おばあさんの寒そうな声と、娘さんの悲しい笑顔が、なぜかぼくの心に深く突き刺さりました。
暗闇坂の街灯は、冷たい風の中で心細そうにまたたいていました。
次の年の春、上野の桜が散ってしまったころのことです。ある夜、ご飯の片付けに来た下宿のおかみさんが、坂の下の荒物屋の娘さんが亡くなったという話をしてくれました。
今日、お葬式が済んだのだそうです。
とても心の優しい良い子だったのに、かわいそうに、お母さんがひどい人でね。せっかく仲の良かった旦那さんを無理やり追い出して、別れさせてしまったんだそうです。
もともと体が弱かった娘さんは、それからどんどん弱ってしまい、とうとう20歳の若さで亡くなってしまった……とおかみさんは教えてくれました。
ぼくは少し前に、上野でこの娘さんを見かけたことを思い出しました。
その時は、お隣のお菓子屋さんの奥さんと子供たちを連れて、桜の花びらが舞い散る中を歩いていました。
横顔はひどく痩せていましたが、まさかもうすぐ死んでしまう人だなんて、その時は思いもしませんでした。
ぼくが一年の中で一番嫌いな季節がまたやってきて、暗闇坂にはまたヤモリが現れるようになりました。
ある夜、荒物屋さんの裏を通ると、雨戸が開け放たれていて、明るいお座敷が見えました。
高く吊るされた蚊帳(かや)の中にしょんぼりと座っているのは、あの年老いた奥さんでした。髪を振り乱してハチマキをし、重い病気に苦しんでいるようでした。
おじさんはそのそばに座って、背中をさすってあげているようでした。
蚊帳のすそでは、黒猫が顔を洗っていました。
ヤモリと荒物屋さんは、本当は何の関係もありません。でも、何かを呪っているようなあのヤモリを毎日見たり、荒物屋さんに続く不幸な話を聞いたりしていると、恐ろしい空想が悪夢のようにぼくの心を襲うのです。
暗い血のような色のまぼろしの中に、病気の奥さんの顔、亡くなった娘さんの顔、そして10年前のお房さんの顔が、呪いの息を吐くヤモリの姿と一緒に、ぐるぐると渦を巻いて現れます。
2、3日たった後の夕方、荒物屋さんの座敷には、近所の人たちが大勢集まってお酒を飲んでいました。
畳屋さんも来ているし、八百屋さんの顔も見えます。
明るいランプの光がみんなの赤い顔を照らして、なんだか楽しそうにさえ見えます。
台所では、お隣のお菓子屋さんの奥さんが忙しそうに働いています。
何も知らない人が見たら、お祝いのパーティーかと思うかもしれません。
でも、病気だったこの家の奥さんは、前の日の夜に亡くなってしまったのです。
息を引き取るその瞬間に、亡くなった娘さんの名前を呼んだ……という話でした。養子に出ていった息子さんとは離ればなれになり、娘さんも奥さんも亡くして、今は自分の影と一緒にいるような一人ぼっちのご主人。でも、周りの人から見るとちっとも悲しそうには見えず、相変わらずお店の商品のホコリをパタパタとはらっています。
台所の方は、近所の人たちが代わりばんこにやってきて、お世話をしてくれているようでした。
それからしばらくすると、お店に新しい女の人が座るようになりました。
下宿のおかみさんは、「あのお店に、若くて素敵な新しい奥さんが来たんだよ」と、うれしそうに話してくれました。
ぼくも、その新しい奥さんの晴れやかな笑顔を見て、「なんだかこのお店に、やっと明るい光がさしてきたな」と感じました。
今年の夏、そのお店にかわいい赤ちゃんが生まれました。家族が一人増えたのです。
気持ちよく晴れた夕方などは、ご主人はこの赤ちゃんを大事そうに抱っこして、お店のまわりをあちこち歩いています。
通りがかりの近所のおばさんたちが赤ちゃんをあやすと、お父さんになったご主人の優しそうな顔に、うれしさがじわーっとあふれ出します。
新しい奥さんも、お店でうちわを使いながら、その様子をとても楽しそうに眺めています。
涼しい風が、お店の明かりをゆらし、のきに吊るされたカゴやほうき、ランプの「かさ」を吹き抜けていきます。そして、その幸せな光景を見ながら通りすぎるぼくの胸の中にも、心地よい風が吹き込んできました。
ぼく自身の暮らしには、あれから特に変わりはありません。
雨が降れば、いつものようにお風呂屋さんへ行きます。
暗闇坂の街灯には、今でもヤモリが姿を見せます。でも、前のような不気味で恐ろしい空想は、もう浮かんできません。その小さくて細長い黒い影は、穏やかな明かりの中で、まるでスヤスヤと眠っているかのように見えるのでした。
初級翻訳・やもり物語 第2話
やもり物語
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