一 なまけものにも言い分はある
江戸の京橋にある「やんぱち長屋」という古い建物に、桶(おけ)を作る職人の弥六(やろく)という男が住んでいました。
弥六は、とんでもないなまけものでした。
それはもう、ちょっとやそっとのなまけ方ではありません。あきれて言葉が出ないくらい、ものすごくなまけものだったのです。
「あいつはどうしようもないな、弥六のやつは」
大家さんの平作(へいさく)おじいさんは、ため息をついて太鼓判を押しました。
「ああいうのを、『底ぬけ(どうしようもないやつ)』って言うんだよ」
これに反対する人は一人もいませんでした。
それどころか「底ぬけ」というあだ名は、そのまま弥六の呼び名になってしまいました。
弥六のお父さんは弥八(やはち)といって、こちらは評判の働き者でした。
お父さんも同じ桶職人で、お酒もタバコもギャンブルも遊びもきらい。食べる時間と寝る時間以外は、ずっと働き通しでした。
弥八が四十六歳で亡くなったとき、弥六は二十一歳でした。
真面目なお父さんに厳しく教え込まれたおかげで、弥六も職人としてかなりの腕前を持っていました。お父さんのお客さんをそのまま引き継いだうえに、お母さんも元気だったので、生活はそれなりに楽でした。
弥六は二十四歳でお嫁さんをもらいました。
すると、お母さんが亡くなりました。
それは本当に、あっけない最期でした。三人で晩ご飯を食べているとき、お母さんは突然、お茶碗とお箸を放り出して、仰向けにひっくり返ったのです。
ふざけているようにも見えましたが、とりあえず布団を敷いて寝かせました。
お母さんは夜中までいびきをかいて眠っていましたが、ふと目を覚まして、こんなことを言い出しました。
「うなじのあたりで、アリが行列を作っているよ」
追い払ってくれと言うので、よく見ましたがアリなんてどこにもいません。
「いないわけないよ、よく見ておくれ」
お母さんは子供がぐずるようにせがみました。
「ほらほら、うなじから頭の方へ並んで歩いているじゃないか。ほら、髪の毛の中へゾロゾロ入っていくよ。ああ嫌だ、追い払っておくれ。おでこの方まで行列が来るよ」
そしてしばらくして、「うーん」とうなりました。
それは気持ちよさそうな、「ああ、いい気分だ」というような声でした。
それが、亡くなる合図だったのです。
弥六はもともと、働き者とは言えませんでした。
でも、お母さんが亡くなると、ついに本当の姿を見せ始めました。
仕事をすれば確かな腕前を見せるのですが、だんだんと仕事をしなくなっていったのです。
かといって、悪い遊びに夢中になるわけでもありません。
お父さんと違ってお酒も飲むしタバコも吸います。遊びに行くことも嫌いではありません。
でも、なければないで平気でした。
「なんだか元気がないわね、あんた。お酒でも買ってこようか?」
奥さんがそう言うと、弥六はあくびをします。
「んー、お酒か。そうだなあ」
そして、だるそうにどこかをポリポリかきながら言いました。
「まあ、そうでもするか」
お酒を買ってきて温めて出してやれば、出された分だけ飲みます。
黙ってご飯を出せば、黙って食べます。
「もう一本おかわり」とも「もうやめよう」とも、自分からは決して言いません。
タバコも遊びも、すべて同じことでした。
「仕事はどうするの? 働いてくれないと困るじゃない。伊勢屋さんから催促されて、私はなんて返事をしていいか分からないわ。一体あんた、どうするつもりなのよ!」
「どうもしないよ」
弥六はあくびをしました。
「どうもしないし、したくもないのさ」
仕事をしなければ、お客さんは減っていきます。
当然、お金も入ってきません。
夫婦の情愛があったので、奥さんが内職などをして二年間ほどはどうにか暮らしてきました。
けれど、愛情も無限ではありません。奥さんはついに、愛想を尽かしてしまいました。
そして、大家の平作おじいさんに相談したのです。
「そうだよねえ。無理もない、無理もないと思うが……」
大家さんはさすがに年上の知恵を見せました。
「とにかく、わしが一度注意してみよう。それでダメなら仕方ないが、まあ、一度様子を見てからにしたらどうだい」
平作おじいさんは、弥六を叱りに出かけていきました。
ところが弥六は、だらしない格好で寝そべったまま、すべてを見通したようなことを言い出しました。
「そんなに仕事、仕事って言ったって仕方ないですよ。うちの親父なんて、寝る間も惜しんで仕事をした。大家さんも褒めていたから知ってるでしょう? まるで仕事のオバケみたいに稼いだもんです。それでどうなったかって言えば、やっぱり一年中お金がなくてヒーヒー言ってたんですよ。お酒もタバコもやらず、楽しみなんて何一つ知らず、バカみたいに働き続けて、それでも貧乏から抜け出せなくて、そうして四十六なんて若さで死んじまったんです。……大家さん、同じことですよ。一生懸命稼いだところで、稼がないでいたところで、どうせ抜け出せない貧乏なら、あくせく動くだけ損っていう計算ですよ」
それからだるそうに、大きなあくびをしました。
「おれはこれでいいんです。これが極楽ですよ。放っておいてください」
結果は、はっきりしていました。
奥さんのお兼(おかね)は実家に帰り、弥六は一人ぼっちで置いてけぼりにされてしまいました。家を出ていくとき、お嫁さんのお兼(おかね)は泣きながら言いました。
「あんたが人並みの気持ちになってくれる日を、あたしは実家で待ってるよ。嫌いになって別れるんじゃないんだからね。あたし、待ってるからね。どうか、早く帰れるようにしておくれよ」
お兼はそう何度も繰り返して、またしばらく泣き続けました。
二 出てくるゆうれいにも事情がある
奥さんに置いてけぼりにされてから、二年の月日が流れました。
大家さんがときどきお米やお味噌を届けてくれるのと、家にある物を片っ端から売り払うことで、弥六(やろく)はむしろ気楽そうに暮らしていました。
「お兼さんは実家で待ってるんだぞ。かわいそうだと思わないのかい」
大家の平作(へいさく)おじいさんは、会うたびに小言を言いました。
「いい腕を持っているのに、おまえみたいなやつは見たことがない。まだ目が覚めないのか」
すると弥六は、不思議そうな顔をしてこう言うのでした。
「ああ、誰かと思ったら大家さんか」
それから手足をぐーっと伸ばして、大きなあくびをします。
「あっあーっ、ふう。……何か用かい?」
これでは平作おじいさんも、黙って帰るしかありませんでした。
夏、六月のこと。
今のカレンダーで言うと七月のことですが、夜の始まりごろから小雨が降り出し、夜中になってもやみませんでした。
気温も下がって、少し肌寒いくらいの夜でした。
蚊帳(かや:蚊よけのネット)も吊らず、布団も敷かないまま、床にごろ寝をしていた弥六が、ふと目を覚ましました。
……蚊取り線香の火が消えていました。
けれど、わざわざ火をつけるよりも、蚊に刺されている方が、彼にとっては楽なことでした。
「まだ降ってやがる。しつこい雨だなあ。
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