一
老田久之助(おいたひさのすけ)が、殿様の特別な側近であることは、長岡藩(ながおかはん)で知らない者はいなかった。
本当の苗字は郷田(ごうだ)なのだが、「老田」と呼ばれていることにもその特別扱いの理由があらわれている。つまり、藩主である牧野忠辰(まきのただとき)の幼名が「老之助(おとのすけ)」だったのである。藩主はその幼名の一字を与え、「お前の一代に限り、老田と名乗れ」という命令を下した。それ以来、みんなそう呼ぶようになったのだ。
……忠辰は、飛騨守忠成(ひだのかみただしげ)の子である。七歳のときに母を亡くし、そのすぐあとには父とも死別してしまったため、十歳という幼い身で家督を継いだ。
大叔父にあたる牧野忠清(まきのただきよ)が後見人となり、年上の家臣たちが補佐しながら藩の政治を見ること五年。延宝七年(1679年)の十二月には、十五歳で従五位下(じごいのげ)の駿河守(するがのかみ)に任命され、自ら七万四千石の政治の中心に座った。
それはただの飾りではなく、実際に自分でしっかりと政治を動かしていたようである。
家系に伝わる記録によると、忠辰は牧野家の中興の祖(ちゅうこうのそ)と称されるほどで、生まれつき頭が良く聡明だった。さらに、家臣の中にも稲垣平助(いながきへいすけ)、山本勘右衛門(やまもとかんえもん)、牧野頼母之助(まきのたのものすけ)といった忠義の士がそろっており、先生役をつとめてくれた。そのため、生まれ持った才能がぐんぐん磨かれ、早くからその輝きを発揮し始めたのだろう。
十七歳のときには、高田城(たかだじょう)の受け取りという幕府からの大役を任されたが、その際にも大人たちを驚かせるような機転と勇気を見せている。
学問の面でも武道の面でも、生涯に残した功績は大きく、他の見本となるような立派な行動がたくさんあった。
……だが、ここでは忠辰の人生を語るのが目的なのではない。だから、われわれの主人公のほうへ話をもどすとしよう。
久之助は、郷田権之助(ごうだごんのすけ)という人物の三男で、七歳のときに幼い殿様(つまり忠辰)のお相手(遊び相手)としてお城の御殿へあがった。
いっしょに五人ほどの少年があがったが、最初から久之助がとびきりのお気に入りだった。殿様はなにをするにも久之助なしではいられず、また久之助の言うことなら大抵のことは聞いてくれるという様子だった。
しかし、一度だけこんな出来事があった。あるとき、なにを思いついたのか、忠辰がほかのお相手の少年の一人に向かって、「犬になれ」と言い出したのだ。
その少年は、嫌ですと答えた。
「おれがなれと言っているんだ、なりなさい」
「嫌でございます。犬にはなりません」
ふたりが言い争っていると、久之助が忠辰に向かって、「それは若君のご無理でございます」と言ったのだ。
「そんな真似をさせられたら、私はこれから先、殿様にお仕えすることができなくなります」
まわりにはほかのお相手の少年たちもいたし、いちばんお気に入りの久之助にそんなふうに面と向かって注意されたので、忠辰はカッとなって怒り出し、久之助に組みついた。そして、久之助を床にねじ伏せて、拳でポカポカと殴った。
久之助は避けもせずに殴られながら、
「若君のご無理でございます。私が命令にそむいたのはもっともなことです。武士に向かって犬になれとおっしゃる法はありません」
忠辰にだけに聞こえるくらいの小さな声で、ゆっくりと言い続けた。
誰かが知らせたのだろう、そこへお守り役の老臣である稲垣浅之助(いながきあさのすけ)というおじいさんが走ってきた。
忠辰はすばやくパッと跳ね起き、久之助もゆっくりと立ち上がりながら、いきなり大きな声で叫んだ。
「参った! 参った!」
すると、久之助の鼻からポタポタと鼻血が流れ出した。
「いったい、なにを乱暴なことをなさるのですか!」
駆けつけてきた老臣がそう叱りつけると、久之助は両手で自分の鼻を押さえながら言った。
「相撲のお相手をしていたのです。乱暴をなさったのではありません。相撲をとって、わたくしが負けたのです」
忠辰は真っ赤になった顔を下に向けて黙っていたが、老臣が去っていくと、少年たちに向かって、
「お前たちは向こうへ行け」
と言ってみんなを遠ざけ、自分の懐紙(かいし)を取り出して久之助の鼻血を拭いてやった。
久之助の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
忠辰の頬にも、一筋の涙が伝った。どちらも言葉は交わさなかったが、まるで心の糸とでも言いたいような強い絆がそのときしっかりと結ばれたことを、ふたりはずっと後まで忘れることができなかった。
父親の郷田権之助は、自分の息子が殿様に特別にかわいがられることを良しと思っていなかった。彼はよく久之助にこう言い聞かせていた。
「人より抜きん出てお気に入りになるというのは、正しいお仕えの仕方ではない。そういう者はとかく周りの同僚たちからねたまれる原因になるし、殿様の寵愛を独り占めしようとして変な競争心を招きやすい。
武士たるもの、殿様に『困った顔』をおさせしないように心がけなくてはならぬぞ」
久之助はその言いつけを守ろうとつとめた。特別にかわいがってもらおうと機嫌をとったことなど一度もない。それは父親も分かっていたが、だからこそ、親としてはかえって心配でならなかったのである。
忠辰が駿河守に任命された年、権之助は自分の息子を殿様の側近から離すことを決心した。そして老臣を通じて忠辰にお願いし、久之助を江戸から国元(長岡)へ異動してもらった。そのとき、久之助は殿さまと同じ十五歳だった。
二
江戸を去るにあたって、いとま乞い(お別れの挨拶)のために参上すると、忠辰はとても機嫌の悪そうな顔をしていた。
賢い性格だから口には出さなかったが、「納得がいかない」という気持ちが目つきによくあらわれていた。
「なにか、余(わたし)に置いていくものはないか?」
忠辰はそんな言い方で、わずかに別れを惜しむ気持ちを示した。
「殿様は、特にミカンをお好みでいらっしゃいます」
久之助はそう答えた。「……ほかにも二三、特に御好物な品がおありだと存じますが、向後はそういうものをお嫌いあそばすよう、これだけをお名残りに言上いたします」
「好きなものを嫌いになれと云うのか」
「先日ふと見ました書にこういう言葉がございました、賢を尚ばざれば民をして争わせてはならぬ、得難きの貨を貴ばざれば民をして盗みをさせない、欲すべきを見せざれば心をして乱れさせない。
……お上の特に御好物なものは、手に入りにくいものほどこれを献上して機嫌を取ろうとする争う心を起させます。
同様に人をえこひいきして用いることも、家中に争う心を起す原因かと存じます」
「いまの言葉はなんの書から引いたのか」
「はあ、老子経だったかと存じます」
「老子は異端といわれている、そのほう老子など読んでは悪かろう」
「毒薬も飲み方しだいと申しますから」
忠辰はにっと笑いながら頷いた。
それではこんど会うまでに自分も老子を読んでやるぞ、という意味である、朱子学一筋の堅苦しい先生たちの目をくらまして、忠辰が古学や陽明学を知ったのもこの手であった。
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