初級翻訳・ゆだん大敵 第2話

ゆだん大敵

久之助は退出するとき、
「蜜柑のことは覚えて置く」という言葉を貰った。
長岡へ移ってからの久之助は、藩士で後に忠辰の侍読となった小出経之(こいでつゆゆき)についてひじょうによく学んだ。
それから原田義平太(はらだよへいた)という老人を師に三留流(みどめりゅう)の刀法を修業したが、義平太から手すじの良さを認められ、三年ほど経つと代稽古(だいげいこ)さえするようになった。
「なんの道にも天から与えられた才というものがある、そこもとの刀法がそれだ、学んで得られないもの、教えて教えられぬものをそこもとはもっている、当藩の三留流は自分一代で終るつもりだが、奥義とされているものはそこもとに伝えよう」
 そう云って義平太はおのれの会得したものを熱心に伝授した。
……忠辰が帰国すればお側から離れず、学問でも武芸でもずば抜けており、態度は丁寧で謙虚だし、数年間は一藩の期待と好意が久之助ひとりへと集まったようだった、しかしそれはかれが二十一二歳までのことで、それ以後はしだいに性格が変っていった。
同藩の士に、鬼頭図書(きとうずしょ)という者がいた。
類のない偏屈(へんくつ)者で、
「おれには普通の御奉公はできないから」
 と云い、若いときから城の内外の草取りを自分の役目として願い出て、そのほかにはどんな役にも就かなかった。
あるときある者が、
「七万石の御家に二百石の草取りはもったいないことだ」と言った。
図書はすぐにその者の住居へいって、
「……草取りをしようと下の肥やしをくもうと、御奉公の一念に間違いがなければよいはずだ、家禄二百石は鬼頭の家に下さるもので、草取りをする図書に賜わるものではないぞ」と怒鳴りつけた。
ふだんあまり口数は多くないが、言うべき段になると遠慮会釈がなかった、たとえ相手が老臣だろうと足軽だろうとあたり構わず怒鳴りつける、自然と親しくつきあう者もなく、五十歳を越すのに嫁をもらわず、暇があれば二人の家僕と田を耕したり畑を作ったりして、徹底してシンプルで無駄のない生活を送っていた。
家禄は二百石余りだったが、どういうわけか常に貧乏で、着るものはいつも継ぎはぎだらけだし、手作りのわらじのほかに履物というものを用いず、食事は年中ひえ飯に野菜の味噌汁というありさまだった。
……久之助は図書の噂を聞いて心を惹かれた。
会えばなにか得るものがありそうに思え、訪ねていこうと考えながらも、しかしよい機会もなく年を越していた。
するとある年の夏、お城から帰ろうとして二ノ曲輪(にのくるわ)を歩いて下りてくると、うしろから誰かに呼びとめられた。
ふり返ってみると山のような草束を背負った中老の男が追って来る、じりじりとした太陽の照りつけるなか笠もかぶらず、日に焼けた黒くたくましい顔からは、汗が滝のように流れていた。
「そこもとは老田久之助というか」
 ひどくえらそうにそう尋ねた。
それからふんふんと鼻を鳴らしながら、こちらをじろじろと上から下まで見下ろして、
「わしは鬼頭図書という者だ」
 とぶっきらぼうに言った。
「……そこもとが訪ねて来るだろうと思って待っているが来ない、わしに会う必要はないのか」
 そして山のような刈草の束を背負ったまま、さっさと外曲輪(そとくるわ)のほうへ去っていった。

三

 久之助がいちど訪ねたいと思っていたのは事実である、図書もまた来るのを待っていたという、どんな意味にせよ、「待っていた」という言葉には心をとらえられた。
その夜すぐに、久之助は図書の家を訪れた。
……家には三つの部屋しかなかった、もちろん雨戸はないし、どの部屋もただの板敷きで畳というものがまるで無い、暗くてよくはわからないが床間の鎧櫃(よろいびつ)と長押(なげし)の槍、そして一脚の小さな古い机、それが目につく道具のすべてらしい、質素なくらしだとは聞いていたが、むしろ何もない荒涼といいたいほど殺風景である、板敷きの上へ藁で編んだ丸い座布団を置いて、明かりもつけずに宵闇のなかに主客は向かい合って座った。
「もう間もなく月が昇るだろう」
 図そう言って自分の拳で額の汗を拭いた。「証拠がなくても、お前の話はちゃんと聞こえているぞ。まずは、よく来てくれたな」
「かねてから一度お伺いしようと思っていたのですが、つい今までその機会がなかったものですから」
「それなら、そう思ったときすぐに来るものだ。人間の命なんて、明日のことすら分からないのだからな」
 そのひと言は、なんだかとても不思議な響きを持っていました。
そして、久之助がはっとしたように顔を上げると、図書はその顔を射抜くような鋭い目でじっと睨みつけました。
「お前は、殿さまの特別なお気に入りと噂されている。よほどかわいがられているそうだが、いったいどのような心構えでお屋敷に仕えているのか? いや、それよりも、そもそも侍の奉公というものがどういうものか分かっているのか?」
「侍の奉公とは、自分の身も命もすべて殿さまに捧げることから始まると考えております」
「それは、どこで終わるのだ?」
「終わりはございません」
「人間はいずれ死ぬのだぞ。死んでしまってから、どうやって奉公ができるというのか?」
「一度、殿さまに捧げたと誓ったこの命は、たとえ死んだところで自分のものに戻る道理はございません。つまり、奉公に始まりはあるけれど、終わりはないと信じております」
 暗がりの中で、図書はそっとうなずきました。けれど、すぐに言葉を重ねて、それではお前はいつでもどんなときでも、すぐに自分の命を捧げることができるのかと問いかけました。
「口で言うだけなら、なんとでも威張って言える。実際に、その覚悟を日々の暮らしの中で活かしているかどうかなのだ」
「それは、口先だけでお返事のしようもございません」
「確かめる方法はある」
 図書はそう言うと、立ち上がりました。
「刀を持って庭へ出てきなさい」
 さっさと歩いていく図書の後を追うように、久之助も長い刀を右手にして庭へ降りました。
十七夜の月は昇っていましたが、光がまだぼんやりとしていて庭の中はお化けが出そうなほど暗く包まれていました。図書は振り返って月を見上げたあと、そのまま静かに刀を抜きました。それは重ねが厚い、ずっしりと長い刀でした。
「武士の真価は剣にあらわれる。身も命も捧げたと言うお前の本当の腹積もりを、見せてもらおうか」
「ここで、私を相手に戦うのですか?」
「お前が本当に国のお役に立つ人間だと分かれば、わしは斬られて死んでも本望だ。だがその代わり、お前が殿さまの寵愛をずる賢く利用するだけの偽物の侍だと分かったら、容赦なく斬り捨てる」
 図書の声には、本物の殺気がこもっていました。
「ここで死ぬ覚悟を決めて、刀を抜け! さあ、行くぞ!」
 久之助は、じっと図書の様子を見つめました。それから、刀の下げ緒を外し、たすきを掛け、袴の裾をたくし上げると、静かに自分の長刀を抜き放ちました。
図書もまたその様子をじっと見守っていましたが、何かを思い出したように、
「待て待て、本気の勝負は明日にしよう」と急に言いはじめました。
「お前にも、片付けておくべきことがあるはずだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました