そこには、賢七が言っていた「死に装束」と、毎日の登城(お城への出仕)に使う服が入っていました。それを一枚ずつ取り出していくと、おそらく着物の袖(そで)のあたりにでも押し込んであったのでしょう、またもや飴玉が十個ほどゴロゴロと転がり出てきました。
……挟箱の次は小机のほうへと歩き、脇に置いてあった手文庫(てぶんこ:手紙や書類を入れる箱)を引き寄せました。すると賢七は慌てて走り寄り、手文庫をぎゅっと押さえつけました。
「それはいけません、これだけはお断りします。人様に迷惑がかかる個人的な文書も入っておりますので」
久之助は黙ってスッと手を放しました。
十
手文庫から手を放して立ち上がると、久之助は手を高く上げ、長押(なげし:柱を繋ぐ横木)の上をさっと撫でて、その手を賢七の目の前へ差し出しました。
手のひらは真っ黒なホコリで汚れていました。
「この有様(ありさま)を見るがよい」
久之助は部屋の中をぐるっと見回しました。
役人の厳しい目が光る武士の暮らしにおいて、これはあまりにも油断しきった光景でした。「……自分の部屋ではなく、他人の部屋だと思ってよく見てみなさい。いつ何どきでも命を捧げると言うが、その『いつ』というのは待ったなしでやってくる。あるとき突然、その場で命を落としたとする。そうなれば、事件の事情を調べる検視役(けんしやく)は手文庫の中身だって容赦なく調べ上げる。戸棚の奥や部屋の隅々まで残らず探し回られたら、少しの誇張もなく、この部屋はまさにこの通りの有様になる……。貴公、これで潔く死ねると思うか。こんな状態で死んで、恥ずかしくはないのか」
賢七は、全身の骨や筋肉がすっかり萎(しな)びてしまったかのようにその場へへたり込み、両手で自分の膝を強く掴みながら、がっくりと頭を垂れました。
「自分の情けない恥を告白すれば……」
久之助は、胸が痛むような声で続けました。
「……今から数年前、私自身もこれとほとんど全く同じ経験をしたのだ。
いつでも死ねるという覚悟は決めているつもりだったが、実際にその覚悟を日々の生活の中で生かしきれていなかった。
その事実をあるお方からピタリと指摘されたとき、私はどれほどショックを受け、参ってしまったことか……あなたにもそれが分かるだろう。……学問も武芸ももちろん大切だ。しかし、命を懸けて国に奉公するという根本がぐらぐらでは、たとえどれほどの大学者になろうとも、どれほど剣術の天才になろうとも、真の武士とはいえないのだ。
国や君主を守り支えるのは、侍である。いつ何どきであっても、自分の命と魂をいつでも差し出せる、それが侍の魂なのだ」
「…………」
「剣術の流派には、『免許(めんきょ)』というものがある」
久之助は少し息を整えてから、さらに言葉を続けました。
「……学問にも卒業というものがある。しかし、武士の道には免許も卒業もない。お上に仕える御奉公には、始まりはあっても終わりはないのだ。
日々、時々刻々と、命を捧げる覚悟で生きるということは、しかし口で言うほど簡単なことではない。そんな決して簡単ではないことを、一生涯一度もぶれることなく続けさせるための根本とは一体何なのか。それは、『生き方』だ。その日その日、一瞬一瞬の生き方にあるのだ。
汚れのない着物が大切なのではない。炭のくべ方が大切なのではない。拭き掃除も、持ち物の整理も、その一つひとつは決して大げさなことではない。けれども、それらの細かい日常のすべてを合わせたところに、その人間の『生き方』がハッキリと表れるのだ。取るに足りないように見える日常の些細(ささい)なことこそが、実はもっとも大切なのだ。
……自分がそなたたちに伝えたい『道』は、まさにここにある。
言葉の綺麗事でも、難しい哲学でもない。どんなに些細なことの端々にまで気を配り、大切なことを見失わず、決して油断しない生き方――これこそが、私がそなたたちに伝えたい『道』なのだ」
うなだれた賢七の顔から、ぽとぽとと大粒の涙がこぼれ落ちました。肩が激しく震えだし、それに合わせて声を殺した嗚咽(おえつ)が聞こえてきました。
久之助はしばらくその泣き声を聞いていましたが、やがて話を締めくくるように、こう付け加えました。
「口で言うのはこれだけの簡単なことだが、ただ口で言って頭で理解するだけでは、本物とは言えない。
道場での日々の厳しい日課の中から、身をもって学んでほしかったのだ。
私が渡した免状に書いた五つの文字『ゆだん大敵』とは、『学んだその教えに、一生涯、決して油断してはならないぞ』という意味なのだ」
嗚咽で体全体を震わせながら、賢七は床に両手をつき、地面に貼り付くように深く平伏(へいふく)しました。
「間違っていました」と言い訳をすることもせず、許しを乞うこともありませんでした。しかし、おいおいと泣きながら床にひれ伏すその姿は、どんな言葉よりもはっきりと、彼の心の底からの反省を表していました。
「そろそろ稽古の時間だ。顔を洗ってきなさい」
久之助はそう言い残して、部屋を出ていきました。
父親の権之助(ごんのすけ)が家に戻ってきたのは、みんなの夕食がすっかり済んだあとでした。
どこかでご馳走にでもなってきたのでしょうか、めずらしく顔を真っ赤に酔っ払っていました。
いや、赤いだけではありません。何か気に入らないことでもあったのか、ものすごく不機嫌に顔をしかめています。
そして、
「部屋へ来い!」
と久之助を厳しく呼びつけ、赤くしかめた顔でじーっと長いこと睨みつけました。
「お前は今日、お殿様の御前で、淵田(ふだ)という武芸者と試合をしたそうだな」
久之助は膝の上でぎゅっと拳を握りしめました。
「……お前は一藩の師範として道場を任され、たくさんの門人を預かっている身だというのに、よそから来た武芸者に簡単に負けてしまい、師範としての面目がどこにあるんだ! それでお殿様に申し訳が立つと思っているのか!」
「お殿様にはしっかりとお詫びを申し上げ、お許しをいただいて城を下がってまいりました」
「わたしが言いたいのはそんなことじゃない!」
権之助は今にも平手打ちを食らわしそうな勢いで怒鳴りました。
「……試合の様子が気になったので、老職(ろうしょく:重役)の屋敷からの帰りに、梶岡(かじおか)の家へ立ち寄ってみたのだ。梶岡の家では淵田を中心に小さな宴会が開かれていて、わたしもその席に加わった。だが、あの武芸者め、一応は言葉を選びながらも、我が藩の武道をコケにしやがったのだ! 師範であるお前が負けた以上、どんなに悪口を言われても一言も言い返すことはできん。だがな、その会話の中にこんな言葉があった……。
『長岡のお殿様は学問も武芸も熱心だと聞いていたが、世間の噂ほど大した人物ではないな。名君などと評判の高い人でも、実際に会ってみると愚かなことの方が多い』……とな」
十一
「これをどう聞く!」
権之助はぐっと拳を突き出しました。
「……うまく言葉を隠してはいるが、これは明らかに御主人様(お殿様)の悪口だ!『愚か』とはお殿様を指して言ったに違いない。
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