初級翻訳・ゆだん大敵 第9話

ゆだん大敵

そして、そんなことを言わせる原因を作ったのは、試合に負けたお前なのだ!」
「それは違います、本当に違うのです! 彼はうちの藩に家臣として雇われることを期待していたのですが、それがダメになったので、その不満からそんな悪口を叩いているだけなのです!」
「だったらなおさらだろう! お前が試合に勝っていれば、そんな不満も出なかったはずだ。すべての責任は、お前が負けたことにあるんだ!」
権之助はつい最近前歯を一本折っていたので、激しく怒鳴り散らすたびに唾が激しく飛び散りました。久之助はもう言い訳をするのをやめ、
「まったくもって申し訳ありません」
と、ただひたすら謝り続けることにしました。

夜の稽古がすべて終わったあとでした。
久之助はいちど自分の寝室に入りましたが、父親の寝息が聞こえてくるのをじっと待ってから、足音を立てないようにそっと自分の家を抜け出しました。
外は新秋の素晴らしい月夜で、街全体がまるで水の中に沈んでいるかのように幻想的に見えました。彼はその白く青い月明かりを浴びながら、大手筋(おおてすじ)にある梶岡伊織の屋敷へと向かいました。
「こんな夜遅くに大変ご迷惑とは存じますが、現在ご滞在中の淵田主税助(ふだちからすけ)様に取り次ぎをお願いしたいのですが」
門番にそう頼みました。
「……今夜のうちにどうしてもお話ししたいことがあると、そうお伝えください」
「そのお客様なら、もうお立ち休みになられましたよ」
門番は気の毒そうに答えました。
「……お酒も入っていたせいか、何かご機嫌ななめなご様子で、まわりが止めるのも聞かずに、ほんの半刻(約1時間)ほど前にお出かけになられたのです」
「どちらの道に行かれたか、ご存知ありませんか?」
「草生津(くそうづ)の渡し場へ行くと言っておられたと思います」
「……それは残念だ」
久之助は門番にも聞こえるように、
「では、帰ることにしよう」
と呟き、梶岡の門から離れると同時に、すごい速さで走り出しました。

武家屋敷街を抜けて千手町(せんじゅまち)へと北へ進むと、木立と畑に挟まれたまっすぐな道が、月光を吸い込んで白く浮かび上がり、信濃川へと一直線に伸びていました。
川のほとりまで小走りで急ぎ足でやってきた久之助は、渡し守の小屋に近づき、戸をトントンと叩きました。
「お上の者だ、舟を出してくれ!」
この渡し舟は夜中でもいつでも動かす決まりになっていました。「へい!」と返事をして、すぐに渡し守が出てきました。
「半刻ほど前に、ここを渡った男がいなかったか?」
「へえ」
男は酒のにおいをプンプンさせていました。
「……お侍様が一人お見えになりましたが、はじめは『舟を出せ』とおっしゃったのに、急に『やめた』と言われまして」
「渡らなかったのか?」
「『しばらく月見をしてから行く』とおっしゃって、向こうの方へ……」
と渡し守は川原を指さし、
「……あの川岸のあたりにいらっしゃいます。実は、今ちょうどお酒を温めて持って行ってやるところでして、へえ」
「あの柳が生えているところだな」
久之助は振り返ってそちらを確認してから、
「……よし、その酒はわたしが持って行ってやろう」
そう言って渡し守の手から燗徳利(かんどっくり)を受け取ると、静かに川原の方へと歩いて下りていきました。

信濃川は薄い霧に包まれ、すぐ目の前にある柳島(やなぎじま)も、幻のように青くぼんやりと霞んでいました。
月明かりをたっぷりとたたえた川の波を前に、淵田主税助はとても風流ぶった格好で座っていました。
「遅いぞ、渡し守!」
近づいてくる足音を聞いて、主税助はすっと振り返りました。
「……早くそれをここへ持ってこい!」
「酒はあとだ」
「なんだと!」
彼は勢いよく、さっと立ち上がりました。「……誰だ」
渡し守ではなく、片手に燗徳利を持っているが武士だった。
主税助がガバッと立ったその目の前へ、
「もうお忘れか」
と声をかけながら久之助が歩み寄った。
「お前様の相手をした老田久之助という者だ」
「……思い出したぞ、あのときの師範だな」
主税助はギラッと目を光らせた。
「……それで、ここへ来たのは何の用だ。この俺に何か用でもあるのか」
「貴方は我が藩のお殿様の悪口をおっしゃったそうだ。人づてに聞いたものだから確かとは言えないが、我が殿を愚かな君主であるかのように言ったというのは事実かどうか、それを確かめにまいったのだ」
「長岡の人間は気が長いな」
主税助は唇にバカにしたような笑みを浮かべた。
「……自分の主君の悪口を言われて、わざわざ確かめにくるとは感心したもんだ。言ったと言ったらどうする気だ」
「ひどいことをなさるものだ」
久之助は落ち着いた声で言った。
「……よそ様の主君の悪口を言えば、その藩に仕える武士は黙ってはいない。『君主が辱められるときは――』」
「『臣下は死をもってこれを償う』だな!」
主税助は久之助の言葉を奪い取るように言った。
「……勝負はここでつけるか!」
「そのつもりで来た」
「木剣とは違うんだぞ!」
主税助はサッと後ろへ飛びさり、袴の裾をまくって、刀の柄に手をかけた。
「……今度は『参った』じゃ済まないからな!」
「よく見ておけ」
久之助は突然、変なことをかなり大きな声で言った。
「……城の中で戦ったとおりのことをやってみせる。あの試合も、実は俺の勝ちだったのだ。どこで勝っていたのかを、今からお前に見せてやる。俺の手をよく見ていろ!」
久之助は燗徳利をその場に置き、刀を鞘ごと引き抜いて左手に下げた。
今度は彼は袴の裾さえまくらず、刀を左手に下げたまま、静かに相手を見つめながら、
「いざ!」
と言った。
主税助の顔に殺気が走り、何も言わずに抜いた刀にピカリと月光が反射した。
久之助が一歩すすんだ。
やっぱり刀は左手に下げたままだ。
主税助は刀を上段に振りかぶった。二人の目と目が激しくぶつかり合い、息づかいだけで空気が火花を散らすかのような緊迫感に包まれた。そしてまさに、城中での試合と全く同じ瞬間がやってきた。気合いが最高のてっぺんに達し、まるで張り詰めた糸がピーンと音を立てて引き裂かれるかと思ったその瞬間――。
久之助の右手がスッと静かに動き、左に下げていた刀の柄へと伸びた。
主税助の口から耳をつんざくような叫び声が飛び出し、ガッシリと二人の体が一つに組み合った。
しかしそれは、瞬きをするほどのほんの一瞬の出来事だった。主税助は相手を斬りつけようとした姿勢のまま激しく前のめりに倒れ込み、久之助は右手に刀を持ってクルリと振り返っていた。
主税助はドサッと草むらの中に倒れこんだ。
「……見たか」
久之助は静かに声をかけた。
「俺たちがお前たちに教えている一刀、一生に一度だけ抜く刀は、必ず敵を斬って取る。必ず斬って取る! これがその一刀だ。わかったか、横堀!」
刀を拭いながら、久之助が静かに首をめぐらせた。
二十歩ほど後ろの夏草の中に、片ひざをついてこちらを見つめている者がいた。
……横堀賢七である。
こっそり後をつけてきて、これまでのやり取りの最初から最後まで見ていた彼は、突然名前を呼ばれて声も出なかった。

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