序の章
安倍半之助(あべはんのすけ)が、のちに自分の人生をずっと縛り続けることになる「かんば沢」という不気味な名前を初めて耳にしたのは、十歳の時のことであった。
それはなんとも薄気味悪く、怪しげな話であり、のちに兵庫(ひょうご)という叔父の奇妙な失踪(しっそう)事件とも深くつながっていくものだった。
遠藤兵庫という人は、半之助にとって母親の弟にあたる人物で、どうしようもない道楽者だとよく噂されていた。
そんな日頃の行いが祟(たた)ったのかどうか、甲府勤番(こうふきんばん)という地方の役職に左遷されていたが、一年ぶりに江戸へ戻ってきて、半之助の家に二日ほど泊まったときに、その話をしていったのだ。
叔父はすらりとした長身で、目は優しく、なかなかの美男だった。身のこなしもおっとりしていて、いつも静かな笑みを浮かべていたが、その笑顔は人懐っこいというよりは、むしろどこか皮肉っぽく、他人をバカにしているような雰囲気を漂わせていた。
――あの人は小さい頃からあんなふうでしたよ。
母親は自分の弟のことを、よくこう言っていたものだ。
――ご先祖さまの命日(めいにち)のような大切な日でもおちゃらけてしまうし、物事を何ひとつ真面目に考えられない人なんだから。
しかし、母はそんな弟のことを憎からず思っていたようだ。
叔父のほうも、六つ年上のこの姉のことが好きだったらしい。
半之助の記憶では、母の部屋や父の居間に行けば、いつも叔父がいて、退屈そうにゴロゴロと寝そべったり、お酒を飲んでいたりしたような気がする。
兵庫の家は麹町五番町(こうじまちごばんちょう)にあり、実の母親と、「くみ」という妻、「千之助(せんのすけ)」という男の子が一緒に暮らしていた。
だが、叔父はその「くみ」という妻をひどく嫌っていた。
詳しい事情まではわからないが、何か複雑なワケがあったのだろう。あるとき、叔父が父親に向かって、あざ笑うような口調でこんなふうに話しているのを聞いたことがある。
――あいつが何も言わずにじっと座っているとさ、まるで娘みたいにかれんで、清らかで、汚らしいことなんかホコリほども知らないように見えるんだよなぁ。だから、薄汚い女だとは思うけれど、どうしても憎む気にはなれないんだよね。
妻の名前こそ出さなかったが、明らかにその妻のことを言っているのは明白だった。
相変わらずの笑みを浮かべて話していたが、「汚らしい」という鋭い言葉は、子供だった半之助の心にも深く突き刺さり、どうしても忘れられないものとなった。
遠藤家は母の実家であるにもかかわらず、不思議なことに安倍家とはほとんど交流がなかったため、半之助は祖母のことも、いとこにあたる千之助のことも、ほとんど何も知らなかった。
しかし、「くみ」という叔母の印象だけは、なぜかかなり鮮やかに頭に残っていた。
体は小柄で、肌は雪のように白く、いつも泣いたあとのような潤んだ目をしていて、声のとてもきれいな人だった。
「汚らしい」なんて言葉とは世界が全く違う、しおらしくて美しい人だったのだ。
甲府から初めて江戸へやって来たときも、叔父は五番町の自宅へは孫七(まごしち)という下僕をやり、自分は赤坂一つ木(ひとつぎ)にある安倍の家に旅の荷物を解いたのだった。
家族との間にそんな不仲があった理由など、当時の半之助には全く興味がなかったし、知るよしもなかった。
ずっとあとになってから、なんとなくその事情を察することになるのだが、当時の半之助は、それをこれ以上深く知りたいとは決して思わなかったのである。
ただ、その家族の不和があったせいで、のちに叔父が忽然(こつぜん)と謎の失踪をした際、その遺品が五番町の家ではなく安倍の家に預けられることになり、それが巡り巡って半之助自身の運命をも大きく変えてしまうことになるのだが――。
さて、その日の夕食の席は、久しぶりにやって来た叔父を囲んで、大変にぎやかに話が弾んだ。
話題の中心は、自然と叔父が赴任していた甲府のことに絞られていった。
半之助は、その話の中で出てきた「隠し言葉」「隠し草鞋(わらじ)」「隠し湯」といった秘密めいた響きの言葉を、とても面白そうに聞いていた。
それはたとえば、甲斐(かい)の国には温泉が七つあるが、その場所はすべて秘密にされていること。
「行こう」と言うときは「行かず」と、わざと反対の言葉を使うこと。
また、旅に使う草鞋は前と後ろが逆に作られており、地面には足跡が反対向きに残るようになっていること、などだった。
……これを聞いた半之助はびっくりして、思わずこう質問した。
「どうしてそんなに、みんな隠したり変なことばかりするの?」
すると叔父はニヤリと笑って、こう答えた。
「それがねえ、全部あの有名な武田信玄(たけだしんげん)の計略(けいりゃく)ってことさ」
言葉で敵の耳をくらまし、足跡で敵の目をくらます。そういうわけなのだそうだ。
また、甲府のまわりの言葉や風習には、武田信玄に結びつけて語り継がれているものが実にたくさんあった。
たとえば、「叱られる」ということを方言で「よまあれる」と言うが、これは、信玄が家来たちの失敗をこまめにメモしておいて、あとでまとめて読み聞かせて叱ったことに由来しているという。――おまえは某月某日にこんな失敗をした、某月某日にはあんな失態をやらかした、というふうに、ずらりと読み上げられる、つまり「読まれる」という意味からきているそうだ。叔父は、これに似たような面白い話がまだまだ驚くほどたくさんあるんだよ、と楽しそうに語ったのだった。「もちろん本当かどうかはわかりませんが、おそらく後からこじつけられたものなのでしょう。武田信玄を深く敬う気持ちから生まれたものに違いありませんが、とにかく、地元の農民たちが信玄をあがめる信仰心は、ほとんど宗教と言っていいほど、ものすごく根強く残っているんです」
「それだけ武田一族の治世が長かったってことだな。六百年か七百年くらいは続いたんじゃないのか」
「六百年には少し足りないくらいでしょうかね」
それから話題は、ふたたび「信玄の石棺(せっかん)」という噂へと移っていった。
要するに、武田信玄が、のちに勝頼(かつより)の代になって武田家が滅びることをあらかじめ見越し、いつの日か武田家を再び盛り立てようとする者たちのために、代々伝わる白旗や兜、さらには宝玉や黄金などを巨大な石棺に納めて、どこか人目につかない場所へ隠してある、というお話だった。
「まさか、そんな話を本気で信じているやつなんかいまい」
「それが、みんな本気で信じているんですよ」
叔父の兵庫はすこしお酒が進んでいて、顔を赤らめていたが、どこか普段とは違って、ねっとりとした不気味な表情を浮かべていた。
「実は、その石棺の話とも関係があるんじゃないかと思えるような、別の噂もあるんです。こいつは石棺なんかよりも、はるかに物語めいていて面白い話なんですがね」
それが、あの「かんば沢」に関する話題であった。
甲府の町から西へ六里ほど離れた、巨摩郡(こまぐん)の甘利郷(あまりごう)という山に囲まれた村に、「みどう」と呼ばれる地主の大きなお屋敷がある。
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