初級翻訳・ジャンの物語 第3話

ジャンの物語

そして、そうやってにげた亡命者として、父・トルストイの残してくれた余光を頼りにしながらも、本当の意味では父が求めていた「人間の心や生き方の成長の姿」を理解することはできず、一般の市民としての精神のよりどころさえも見失ってしまい、ついに一人の「ジャン・トルストイ」にこの手記を書かせることになってしまったのです。

ソフィヤ夫人が、大巨人レフ・トルストイの大きな思想や行動を、世の中の普通の人たちのレベルまで引きずりおろそうとしたときには、いつも手元にある便利な武器として使われた子どもたち。
やがて、ひげのそりあとも青々とした若い姿で、お母さんの側にピタッと立ち、「あいつは気狂い親父だ!」と自分の父親に向かってひどい言葉を浴びせかけ、子どもの権利を強く主張した息子たち。
そんな息子たちの自分勝手な生き方に対しては反対しながらも、頭の中だけで考えたような「人間の自由」を大切にしたいと思い、どんな暴力にもやり返さないでおこうとした心持ちが、大きな矛盾となってしまい、現実の生活の中では家族がバラバラになるのをどうしても防げなかった――それこそが、一人の家の父親としてのレフ・トルストイの、あわれにも難破してしまった姿だったのです。

思想の内容はこれとはちがいますし、もっと控えめで、日本らしい細かい表現の違いこそありますが、芸術家としての夏目漱石とその家族の姿が、どこかこのトルストイの姿に重なって思い出されるようです。

フランスといえば誰もが知っているとおり、近ごろは思想の面でも実際の行動の面でも、労働者や一般の民衆の進歩的な願いがますます一つに結びつき、いきいきと力強く前へ進んでいます。
そんな社会の空気の中にいながら、孤児院で育ったジャンが、このようなつらい経験をなめていることに対しても、私たちの心はさまざまな思いで大きく揺さぶられます。

華やかで、ただなんとなく日をくらしているような気分のニースで、素敵なベランダのある別荘に住み、おそらくロシアからこっそりかくしてもってきたわずかなお金の袋をすり減らしながら、昔の思い出ばかりを語って暮らしていたのであろうおばあさん・オリガから、かつての贅沢な生活の幻のようなお話をたっぷり聞かされて育ったこと――それは、ジャンにとって、両親を亡くしたことよりもはるかに大きくて、人生を狂わせる不運なことでした。

地面を耕したり土いじりをしたりすることが、どうしようもなく大嫌いなジャンの気持ち。
農民たちの武骨で飾らない感情表現にどうしてもなじめない、ジャンの都会っ子ぶった気質や、もしかしたら本当はあるのかもしれない自分の出生の秘密にこだわってしまう心持ち。
これらのこともまた、ジャンが人生の勝負で手にしてしまった「負け札」として、決して見すごすことはできません。

ただ、ジャンは機械工になりたくてしかたがなくて、そのお仕事の分野ではしっかりとした技術を教えてもらい、自分でもやれるという自信を持っているのに、更生をめざす教化所が「決まりきったルール」のように、ジャンを農家ばかりに預けようとするせいで、ジャンのこれからの生活がめちゃめちゃになっていってしまう――その点について、私は心の底からかわいそうだと胸が痛むのです。

アブデェンコが書いた小説『私は愛す』を読んだ読者なら、きっと覚えていることでしょう。
国のなかの大混乱の時代に両親をふたりとも亡くし、行くあてのない浮浪児になってしまった主人公の少年・サニカが、労働教育所のみんなで助け合う共同生活の厳しい訓練のなかで、人間としての本当の愛を知り、自分で生きていくための技術をしっかりと身につけて、りっぱに成長していく姿が、本全体を通してあふれるような分かりやすさと美しさで描かれていました。

そこには、ジャンの祖父であるレフ・トルストイが、どうしても抜け出すことができなかった迷路の中に迷い込みながらも、それでも執念深く探し求めていた「人間が持っている心の明るさ、単純さ、健全な目的、そして希望」といったものが、新しい時代の社会を背景にして、いきいきと元気よく浮かび上がっているのです。

心から、「もしジャンが、あの場所にいてくれたらよかったのに……!」と思います。
きっとジャンはこの手記ではなく、全くちがう、もっと希望に満ちた思い出の日記を書いていたことでしょう。
私たちは、ジャンがこの手記を書いたことをきっかけにして、自分が本当になりたかった「機械工になりたい」という少年らしい夢と希望を、一日でも早く自分の手でつかみ取るための条件を、勇気をもって力強くつかんでいってくれることを心から願っています。
そして彼が、子どもらしくない妙に大人びた分別を顔に出したり、自分たちのような不幸な少年は、他の世界へのあこがれや大冒険の夢なんてすててしまった方がいいんだなどとあきらめたりするような、消極的な気持ちをきっぱりとふりすててくれることを強く望みます。
自分自身の赤裸々な告白が、自分を生んだ故国ロシアに対する間違った悪口の材料に使われてしまうような恥ずかしいことにならないように、しっかりと自分の足で力強く生き抜いてほしいと願うのです。

この『ジャンの手記』という物語が私たちに教えてくれる教訓は、決して、昔の家系のつながりをしらべるようなしんみりした感傷的なものでもなければ、世の中のめまぐるしい移り変わりを嘆くような悲劇のお話でもありません。
妻から夫へ向けられる本当の愛情とは何か。
お母さんとしての深い愛情とは何か。
あるいは、よく世間で言われる「家庭を守る」ということの本当の意味や、心から賢い洞察力とは、いったいどういうところにあるべきなのだろうか――ということについて、私たちに「真面目に立ち止まって深く考えなさい」と促してくれるところにあるのだと、私は強く信じているのです。

世間体や見栄えを気にするような、ただかたちだけのやり方では、現実の世の中がどんどん変わっていくことでもたらされる、心の中の本当の幸せや不幸を防ぐことはできないのです。結末における愛というものは、妻の愛であれ、母の愛であれ、どんな荒波にも負けず、社会と自分自身の心の中にあるもっと人間らしい可能性を見きわめ、その夢を叶えるためにこの世をたくましく生き抜いていけるような、落ち着いていて元気が出る勇気や、一生懸命がんばる気持ちを、愛する人の心の中にどんどん湧き上がらせてくれる「泉」のようなものでなければならないのではないでしょうか。

妻や母としての自分がそばにいるからこそ家族が成り立っているという状況は、とりあえず女性の心を満足させ、自分への自信を与えてくれるかもしれません。
けれど、本当に賢く、よく気の利く本当の愛は、それだけで安心したりはしないと私は思うのです。

もしジャンの不幸を、単に「両親を亡くした孤児になってしまったから」という理由だけで片付けてしまうとしたら、それは物事を表面的にしか見ていない浅い観察だと言わざるを得ません。
ジャンに対して、「君はけっして不幸になんかならないで、自分の力でちゃんと生きていけるんだよ」と励まし、進むべき明るい道を示してやる大人がいなかったことこそが、本当の意味での一番の不運だったのです。

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