なによりもこの映画には、息をのむほど美しい画面が、ほとんど無数に散りばめられている。
芸術であれ学問であれ、「美しい」ということこそが最高の要素であり、美しくないものの中に、本当によいものなど絶対にないのだから。
画面が美しいばかりではなく、その映像の中に込められている精神もまた、この上なく美しい。
そして、その美の世界の中に、少年時代のきらめく夢が巧みに織り込まれていき、見る人の心に永遠の童心をよみがえらせ、幻想の世界へと導いていく。
しかし、だからこそ、この映画がただそれだけで終わっていないという点にこそ、私たちはしっかりと目を向けなければならないのだ。
「ぼくはコッド(役立たず・卑怯者)だ」と、人前で言わされることは、ピーターたちのような誇り高い者にとっては、死刑にも匹敵するほど残酷な刑罰である。
しかし、ある種の人間にとっては、このことがそれほど痛切には感じられない場合もある。
少なくとも、あの海賊のフック船長にとっては、まさにそうだったのだ。
こうした、いわば人生における最高の教訓ともいえるテーマが、「人魚の池」に群がる美しい人魚たちの楽しげな遊びの場面や、ティンガー・ベルが黄金の魔法の粉をふりまきながら空中を飛び回る場面などと見事に融合し、鑑賞者に何の不自然さも感じさせない。
だからこそ子供たちは、あるときは固ずをのんで画面に見入り、あるときは歓声をあげるのだ。
そして、五回も六回も、繰り返しこの映画を見にいくのである。
それを単に「この映画がよくできているから」という一言だけで片付けてしまうのは、どうにも少し物足りないと言わざるを得ない。
この映画が生まれた国、すなわちアメリカにおける一般的な教育の目標が、この映画のめざす方向性とぴったりと一致しているという点も、決して見逃すことのできない重要なポイントなのだ。
子供たちは非常に純真であり、学校で毎日受けている教育のあり方に、あっという間に馴染んでいくものだからである。
もちろん、現在のアメリカにおける教育のすべてが、先ほど挙げた四つの基本方針に完璧に沿って進められており、それが例外なくすべて成功しているとは思わない。
それでも、そうした方針を少なくとも大切な「目標」として掲げているという点に関しては、自分の子供たちを通じた実際の体験から見ても、まず間違いないことのように思われるのだ。
こうしたはっきりとした目標を持つ義務教育を終えると、子供たちは高等学校へと進んでいく。
そこでは、本格的な学問に対する厳しい訓練が始まる。
そして、大学に進む時期を迎える頃から、いよいよ本格的な「青年」としての生活が幕を開ける。
「青年」の定義づけはなかなか難しいものだけれど、アメリカでは、このあたりを非常にシンプルに割り切っているように見える。
つまり、二十一歳という成人年齢を迎えた瞬間に、子供は親から完全に独立することになっているのだ。
そして、この独立を果たすことによって、晴れて一人前の青年として認められるわけである。
この「独立」という観念が実にハッキリとしていて、たとえば、子供が二十一歳以上になると、原則として大学の学資などは親が出さないという習慣になっている。
そのため、大学に通っている学生は、たいてい二十一歳以上ということもあり、ほとんど全員が自分の学資を自分で稼いでいると言っても過言ではない。
ごく稀に、授業料を親から全額もらっている学生もいるにはいるが、それはあくまで例外的な存在にすぎない。
これは単なる貧富の問題ではなく、社会全体の共通のルール、いわゆる社会通念の問題なのだ。
たとえば、クリスマスに子供へ立派な自動車を買ってやるような、それなりにお金持ちの家庭の息子であっても、大学の学資に関してはアルバイトをして自分で稼ぎ出すのが当たり前とされている。
そうした実際の例を、自分の身近なところでも一つ目にしたことがある。
アメリカでは、国公立の大学を除けば、授業料は一般的に非常に高額である。
アメリカの有名な大学はほとんどすべてが私立であり、いわゆる「良い大学」に入ろうと思えば、ふつう一年に七百五十ドル(当時の金額でおよそ二十七万円)もの授業料を支払わなければならない。
そのため、授業料だけでも自分の力だけで稼ぎ出すというのは、決して楽ではない、かなり大変な大仕事である。
もっとも、夏休みが三ヶ月間あって、その間にみっしり働けばこの程度の金額は十分に手に入るし、またそうした仕事は、労働をいとわなければ大抵いつでも見つかるという点が、日本とは大きく異なる事情なのだ。その点は本当にうらやましい国ですが、一方で、厳しい期末試験をようやく終えてホッと一息つく間もなく、今度はすぐに夏休みの労働へと、朝の七時から一分遅刻することも許されずに働きに出かけるのは、決して楽なことではありません。
特に裕福な家庭で育った子供たちにとっては、かなりの苦行であるはずです。
「アルバイトの仕事口なんていくらでもあるんだから、気楽な国だ」というのは、物事の片面しか見ていない見方なのです。
同じようなことは、奨学金制度についても言えます。
アメリカには奨学金がたくさんあるから、それをもらえば大学へ行くのも楽になるだろうと、世間ではつい軽く考えられがちです。
しかし、こうした奨学金の多くは大学院の学生を対象としたものであり、学部(新制大学)の学生が十分な金額の奨学金を獲得するのは、非常に難しいのが現実です。
たくさんの種類があるにはありますが、中には年額三十五ドルといった、ほんのわずかな金額の極端なものまで含まれています。
授業料のほぼ全額に相当するような、いわゆる「全額奨学金」をもらうためには、すべての科目でトップクラスの成績(オールA)を収めなければなりません。
それぞれの学年にほんの数名程度しかいない枠であり、日本の昔の特待生のようなものです。
ですから、その全額奨学金をもらい続けるためには、普段から毎晩十二時まで、そして試験の時期には徹夜をするような猛勉強をずっと続けなければならないのです。
つまり、この奨学金という方法も結局は自分の力で「勝ち取る(稼ぎだす)」ものにほかなりません。
奨学金とは、「優秀な成績」という対価で買い取るものであって、タダで気前よくもらえるものではないのです。
その証拠に、いったん奨学金をもらえるようになったとしても、成績が少しでも下がれば、翌年には容赦なく打ち切られてしまいます。
ひどい場合には、学期の途中でさえ打ち切られることがあるのです。
一年分の金額を学年の初めにまとめてくれるのではなく、三分の一ずつ毎学期の初めに支給するため、学期試験の結果次第では、途中で支給をストップすることもできる仕組みになっているわけです。
もちろん多少の人情は考慮してくれることもありますが、日本の場合と比べると、驚くほど冷徹に、非情なまでに「事務的」に処理してしまうと言っていいでしょう。
そもそも根本的な考え方が日本とは違うのであって、どちらが善でどちらが悪という問題ではありません。
アルバイトにしても、奨学金にしても、すべては自分の力でつかみ取るものです。
初級翻訳・ピーター・パン 第2話
ピーター・パン
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