年をとった馬などは、わざわざ蹄鉄(ていてつ)をはずされて、ボロボロと大きな涙を流しながら、その大きな判子を証書にパタッと押したのです。
フランドンのヨークシャー種の豚もまた、活版印刷で作られたその「死亡承諾書」を目にすることになりました。
目にしたというのは、ある日のこと、フランドン農学校の校長先生が、大きな黄色の紙を手に持って、豚の小屋にやって来たからです。
豚は言葉の勉強もかなり進んでいましたし、それに実際のところ豚の舌は柔らかくて才能も十分にあったので、とてもなめらかな人間語で、静かに校長先生に挨拶をしました。
「校長先生、いいお天気でございますね。」
校長先生は、その黄色い証書をだまったまま脇に挟んで、ポケットに手を入れたまま、苦笑いしてこう言いました。
「うん、まあ、天気はいいね。」
豚は何だか、その言葉が耳に入ってから、のどにつかえたような気がしました。
おまけに、校長先生がじろじろと豚の体を眺める様子は、あの畜産の先生とまったく同じだったのです。
豚は悲しそうに耳をふせました。
そして、おそるおそるこう言いました。
「わたくしはなんだか、このごろ気がふさいで仕方ありません。」
校長先生はまた苦笑いをしながら、豚にこう言いました。
「ふん。気がふさぐ。そうかい。もう世の中がいやになったかい。そういうわけでもないのかい。」
豚があまりにも陰気な顔をしたものだから、校長先生は急いでその言葉を取り消しました。
それから農学校長と豚は、しばらくの間シーンと静まり返ったまま、お互いににらみ合った状態で立っていました。
一言も話さず、じっと立っていたのです。
そのうちに、とうとう校長先生は今日は証書をあきらめて、こう言いました。
「とにかくよく休みたまえ。あんまり動き回らないようにね。」
そして例の黄色い大きな証書を脇に抱えたまま、向こうの方へ行ってしまいました。
豚はそのあとで、何度も校長の今の苦笑いや、いかにも裏がありそうな言葉を繰り返し繰り返し思い出しては、ブルッと身震いしながらひとりごとをつぶやきました。
『とにかくよく休みたまえ。あんまり動き回らないようにね。』
いったいこれはどういう意味だろう。あぁ、つらい、つらい……。
豚はそう考えすぎて、まるで自分のあの三角形の頭がパカーッと割れてしまうのではないかと感じました。
おまけにその晩は強い吹雪で、外では風がものすごく吹き荒れ、乾いたカサカサした雪の結晶が、小屋のすきまからピューッと吹き込んできました。そのせいで、豚の食べかけのエサの残りも、雪でまっ白になってしまいました。
ところが次の日のことです。
畜産学の先生がまたやって来て、例の水色の上着を着た、顔の赤い助手をつれて、いつもの鋭い目つきで、豚の頭から、耳から、背中から、尻尾の先まで、まるで突き刺すような目でじーーっと眺めました。それから、ツンと尖った指を一本立てて言いました。
「毎日、亜麻仁(あまに)はやっているかね?」
「やっております。」
「そうだろう。もう明日でも明後日でもいいんだからな。早く承諾書をとっちまえよ。どうしたんだろう、昨日のこと、校長はたしかに証書を脇に挟んでこっちの方へ来たんだがね。」
「はい、おいでになったようでした。」
「それではもうできているのかな。できたらすぐにこっちによこすはずだがね。」
「はあ。」
「もう少し部屋を暗くして置いたらどうだろう。それから、殺す前の日には、エサは一切やらないでくれよ。」
「はあ、きっとそのようにいたします。」
畜産の先生は鋭い目で、もう一度じいっと豚を睨みつけてから、部屋を出て行きました。
そのあとの豚の悩みといったらありませんでした。
(承諾書とはいったい何の承諾書なのだろう。何をしろというんだ。殺す前の日にはエサをやっちゃいけないって、殺す前の日っていつのことだ? いったい何をされるっていうんだ。どこか遠くへ売られるのか? ああ、これはつらい、つらい……!)
豚の頭が割れそうになる苦しみは、この日もまったく同じでした。
その晩、豚は神経が興奮しすぎて、なかなか眠ることができませんでした。
そして次の日の朝、やっと太陽が昇った頃、寄宿舎の生徒が三人、ゲタゲタと笑いながら小屋へやって来ました。
そして、一晩中眠れずに頭がズキズキと痛む豚に、またしても聞きたくない会話を聞かせたのです。
「いつだろうなあ、早く見たいなあ。」
「僕は見たくないよ。」
「早いといいなあ。畑に囲っておいたネギだって、あんまり長いと凍っちまう。」
「ジャガイモもしまってあるだろう。」
「しまってあるよ。三斗(さんと)もしまってあるんだ。とても僕たちだけで食べきれるもんか。」
「今朝は一段と冷えるねえ。」
一人が白い息を手に吹きかけながらそう言いました。
「豚のやつは暖かそうだな。」
一人がそう答えると、三人ともドッと吹き出して笑いました。
「豚のやつは脂肪でできた、厚さ一寸(約三センチ)の外套(コート)を着ているんだもの、そりゃあ暖かいさ。」
「暖かそうだよなあ。どうだい、」湯気さえほやほやと立っているよ。
」
豚はあんまり悲しくて、辛くてよろよろしてしまう。
「早くやっちまえばいいな。
」
三人はつぶやきながら小屋を出た。
そのあとの豚の苦しさ、(見たい、見たくない、早いといい、葱が凍る、馬鈴薯三斗、食いきれない。
厚さ一寸の脂肪の外套、おお恐い、ひとのからだをまるで観透してるおお恐い。
恐い。
けれども一体おれと葱と、何の関係があるだろう。
ああつらいなあ。
)その煩悶の最中に校長が又やって来た。
入口でばたばた雪を落して、それから例のあいまいな苦笑をしながら前に立つ。
「どうだい。
今日は気分がいいかい。
」
「はい、ありがとうございます。
」
「いいのかい。
大へん結構だ。
たべ物は美味しいかい。
」
「ありがとうございます。
大へんに結構でございます。
」
「そうかい。
それはいいね、ところで実は今日はお前と、内内相談に来たのだがね、どうだ頭ははっきりかい。
」
「はあ。
」豚は声がかすれてしまう。
「実はね、この世界に生きてるものは、みんな死ななけぁいかんのだ。
実際もうどんなもんでも死ぬんだよ。
人間の中の貴族でも、金持でも、又私のような、中産階級でも、それからごくつまらない乞食でもね。
」
「はあ、」豚は声が咽喉につまって、はっきり返事ができなかった。
「また人間でない動物でもね、たとえば馬でも、牛でも、鶏でも、なまずでも、バクテリヤでも、みんな死ななけぁいかんのだ。
蜉蝣のごときはあしたに生れ、夕に死する、ただ一日の命なのだ。
みんな死ななけぁならないのだ。
だからお前も私もいつか、きっと死ぬのにきまってる。
」
「はあ。
」豚は声がかすれて、返事もなにもできなかった。
「そこで実は相談だがね、私たちの学校では、お前を今日まで養って来た。
大したこともなかったが、学校としては出来るだけ、ずいぶん大事にしたはずだ。
お前たちの仲間もあちこちに、ずいぶんあるし又私も、まあよく知っているのだが、でそう云っちゃ可笑しいが、まあ私の処ぐらい、待遇のよい処はない。
」
「はあ。
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