高等科の列の中から、正や吉次や、小ツルや早苗のうるんだ瞳が、一心に自分を見つめているのに気づいたのは、壇をおりてからのことだった。
お昼休みに、別棟にある早苗たちの教室のほうへ行くと、いち早く小ツルが見つけて走ってきた。
「せんせ、どうしてやめたん?」
めずらしく泣きそうになりながら言う小ツルのかげで、早苗の目もいっぱい涙を浮かべて立っていた。
あんなに「絶対に女学校へ行くんだ、女学校へ行くんだ」とまっさきになって騒いでいたマスノが、結局は家計の事情などで高等科に残ったというのに、その姿が見えないことについて、小ツルはいつものように尾ひれをつけて話し始めた。
「マアちゃんな先生、おばあさんとお父さんが反対して、女学校いくのやめちゃったん。
『料理屋の娘が三味線習うならまだ話はわかるが、学校で歌うたいになってもはじまらん』って言われて。
マアちゃん、それでヤケをおこして、ごはんも食べずにずっと泣きよるの。
――それからな先生、ミサ子さんの学校は普通の女学校とちがうんで。
学園でね。
ミドリ学園ゆうたら、生徒は三十人ぐらいで、仕立屋に毛がはえたような学校じゃって。
そんなら高等科のほうがよかったのになあ、先生」
思わずクスリと笑わせられた先生は、笑ったあとで優しくたしなめた。
「そんなふうに言うもんじゃないわ、小ツやん。
それより、マアちゃんどうしたの?」
「はずかしい(ふがわるい)ゆうて、学校休んどん」
「ふかなんか悪くないんだから、ちゃんと元気を出してって、なぐさめてあげなさいね。小ツやんも早苗さんも。
それより、富士子さんどうしたの?」
「あ、それがなア、先生、びっくりぎょうてん、たぬきのちょうちんじゃ!」
小ツルは声を大きくし、ただで見開いても大きくなりっこのない細い目を、無理にひらこうとして眉をつりあげて言った。
「兵庫へ行ったんで!
試験休みのとき、うちの船で荷物といっしょに親子五人乗せて行ったん。
ふとんと、あとは鍋や釜やんばっかりの荷物。
たんすも大昔のぬりのがはげたやつが一つだけで、あとはぜんぶ行李(こうり)じゃった。
富士子さんとこの人たち、みんな今まで荒働きしたことないさかい、いまに乞食にでもならなきゃいいけどってみんな心配しよった。
いんま(もう)、富士子さんらも芸者ぐらいに売られなきゃよかろかって――」
じぶんとこの船の運賃の半分は、売れ残りの道具で払ったことまでしゃべりつづける小ツルの肩を、先生は軽くたたいて言った。
「小ツルさん、あんたはね、いらんことを、すこし、しゃべりすぎない? あんた、将来は立派な産婆さんになるんでしょ。
いい産婆さんは、あんまり人のうわさ話をしないほうが、いいことよ、きっと。
これね、先生からの、さいごの言葉(餞別)よ。
すてきな産婆さんになってね」
さすにが小ツルはちょこんと肩をすくめて、
「はい、わかりました」
三日月の目をつむらせて笑った。
「早苗さんも、いい先生になってね。
早苗さんは、もう少しおしゃべりのほうがいいかもしれないな。
これも先生からのさいごの言葉よ」
肩をたたくと、早苗はこっくりとうなずいて、だまってニコニコと笑った。
「コトやんに会ったら、よろしく言ってね。
からだを大事にして、いいお嫁さんになりなさいって。
これもさいごの言葉だからね」
すると小ツルはすかさず、
「先生も、よいお母さんになりますように、これわたしからのさいごの言葉です!」
とおどけて先生の肩をポンとたたいた。
小ツルはもう、先生とほとんど同じくらいの背の高さになっていた。
「はい、ありがとう!」
先生は思いきり声をあげて笑った。
高等科になって、はじめて男女別々のクラスになった教室には、正たちの姿はなかった。
男の子たちの教室のほうへ行って、とくべつに岬の生徒だけに別れのあいさつをするのもなんだか気がすすまず、そのまま帰ることにした。
「タンコさん、ソンキさん、キッチンくんたちに、よろしくね。
気がむいたら、いつでも遊びにきなさいって伝えてね」
「先生、わたしたちは?」
小ツルはすぐに人の言葉のあげ足をとる。
「もちろん、あなたたちもきてちょうだい!」「言わなくたって、昔からあんたたちは来るでしょ。
あ、そうそう」
写真を出すと、一枚ずつ手渡した。すると小ツルは、きゃっきゃっとあたりに響くような声で笑って、ぴょんぴょん飛び跳ねて大喜びした。
その翌日、解き放たれたような自由の嬉しさよりも、大事な宝物を無理やり抜き取られたような寂しさにがっかりしながら昼寝をしていたところへ、なんと竹一と磯吉の二人が連れ立ってやってきた。
伝言のあまりの効目の早さに驚きながら、乱れた髪も結わえないまま二人を迎えた。
「まあ、よく来てくれたわね。
さあ、お上がりなさい」
二人は顔を見合わせ、やがて竹一が言った。
「次のバスで帰るんです。
あと十分か十五分くらいだから、上がっていられないんです」
「あら、そうなの。
その次のバスにしたら?」
「そしたら、岬に着くのが暗くなっちゃう」
磯吉がきっぱりと言った。
どうやら来る道すがら、二人でそう相談してきたらしい。
「あ、そうか。
じゃあ待っててね。
先生も一緒に送っていくから、歩きながらお話ししましょう」
急いで髪を直しつつ、
「竹一さん、中学はいつからなの?」
「あさってです」
その態度はまるで「もう中学生なんだぞ」と言わんばかりで、手には真新しい帽子を持っていた。
磯吉の方も、見慣れない鳥打帽を右手に持ち、手織りの縞(しま)の着物の膝のあたりをきちんと行儀よく押さえていた。
「磯吉さん、昨日は学校を休んだの?」
「いいえ、ぼく、もう学校には行かないんです」
そう言うと磯吉は急に背筋をピンと伸ばし、
「先生、長々とお世話になりました。
それでは、ごきげんよろしゅう」
と、膝を曲げて丁寧に頭を下げた。
「あら、まだよ。
今いっしょに行くからね」
泣き笑いしそうになるのを必死にこらえながら、みんなで連れ立って家を出た。
バスの停留所までは歩いて六分かかる。
その真ん中に立って歩き出すと、磯吉はすっぽりと頭を包み込むような大きな鳥打帽の下から、小さな顔をひょいと見上げ、
「先生、ぼく、明日の晩、大阪へ奉公に行くんです。
学校は、お店の主人が夜学に通わせてくれることになりました」
「まあ、そんなこと全然知らなかったわ。
急に決まったの?」
「はい」
「何屋さんなの?」
「質屋さんです」
「おやまあ、あんた質屋さんになるの?」
「いえ、質屋の番頭さんです。
兵隊に行く年齢まで勤めあげたら、一人前の番頭になれるって言われました」
さっきから磯吉はずっと、慣れないよそ行きの上品な言葉づかいでガチガチに緊張している。
その緊張をほぐしてあげようと、
「立派な番頭さんになりなさいね。
ときどきは先生にお手紙をちょうだいね。
昨日、小ツルさんに写真を預けたでしょう。
あのときのことを思い出してね」
竹一も磯吉も、その言葉にフッと笑った。
初級翻訳・二十四の瞳 第30話
二十四の瞳
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