初級翻訳・大根の葉 第6話

壺井 栄

腰のまわりにたくさん生えている麦の穂が、まわりの麦とすれあってサラサラと音をたて、青い麦の波がゆらゆらと揺れました。
ばあやんは石垣の端に立ち、健ちゃんたちが通りすぎるのを待って、雑草がいっぱいにつまったカゴを道にドスンとぶちまけました。
腰についていた麦の穂も払い落とし、かぶっていた手ぬぐいをとって額の汗をふきふき、話しかけました。
「孫さんじゃない、健さんかいの。健さんは今日もおばあさんのお供かいの。」
「へえ、もういつまでたっても子どもたちとうまく遊べんでなあ、何をするにも、こうしておばあさんのあとにばかりつきまとうんじゃぞな。」
 おばあさんが、だまっている健ちゃんのかわりに答えました。
せどのばあやんは再び手ぬぐいを頭にかぶり、麦畑の中にその姿を隠しました。
今度は後ろから歩いてきた人が、健ちゃんに追いついて並びました。
豚小屋と隣りあっている、みかん畑の家のばあやんでした。
からっぽの目カゴを背中に背負っていました。
「ご精が出ますなあ。」
 おばあさんの背中に挨拶をしてから、ばあやんは健ちゃんの頭をポンと軽く押さえました。
「健ちゃん、お父さんはどこにいるの?」
「東京にいる。」
「ふーん、東京にいるんだね。東京で何をしてるの?」
「手紙書きよん。」
 健ちゃんはばあやんを見上げました。
ばあやんは白い歯を見せて、はっはと笑いました。
「手紙書きよるんか。手紙にはなんて書いてあるの?」
「イシダケンサマ、って書いてある。」
 ばあやんはまた笑いました。
そして健ちゃんの頭をなでました。
「ほんなら、お母さんは?」
 健ちゃんは急に親しみをこめた目つきになってばあやんに向き合い、だいぶ汚れの目立つ毛糸の上着やズボンをキュッと引っ張って、得意になって説明しました。
「これのう、健のお母さんが編んだんだよ。下着も、ズボンも、洋服も、みーんなお母さんが編んだんだよ!」
 ばあやんも調子をあわせて腰をかがめ、健ちゃんの青っぽい上着にさわったり、袖口を引っ張って見たりしました。
「ほんとにい、きれいに編んでるねえ。健ちゃんのお母さんは器用なんだねえ。」
 おばあさんが心配して「先にいってちょうだいな」と言っても、ばあやんは「急ぎませんよ」と言って健ちゃんの手をひきました。
健ちゃんはなんだかとてもうれしくなりました。
「あのね、お母さんはいま克ちゃんと病院に行ったんだよ。遠い遠い病院でね、克ちゃんに目薬をさしたら戻ってくるの。健ちゃん、泣かないで待ってるから、バナナも買ってきてくれるんだ。バナナは美味しいんだよ! んまい、んまいんだよ。おもちゃも買って、ええもんも買って、すぐ戻ってくるんだよ!」
 両手をひろげたり、指を折りながらおみやげを数えたりして、急にペラペラとしゃべりだした健ちゃんにつられて、ばあやんもにこにこしました。
「ええもんを買ってきたら、ばあやんにもくれるかい?」
「うん、あげる! バナナあげる! んまいんだよ。」
 健ちゃんはゴクリとツバをのみこみ、下唇をちょっと突き出して、甘えたような顔をして笑いました。
ばあやんは、おばあさんに話しかけました。
「ねえおばさん、ねんねさん(赤ん坊)の目はすっかりよくなって戻ってくるかねえ。」
「どうなることやらねえ。」
 おばあさんはゆっくりと立ち止まって大きく息をつき、天秤棒をかつぐ肩をかえました。
「まだ生まれたばかりの子を、手術だなんだといって、生きた目をつつき回すんだそうだけど、そんなことして大丈夫かねえ。まったく、いまどきの若いもんは気が強いからねえ、いっぺんで見えなくなったら二度でも三度でもやり直すんだって言うじゃない。ほんとに恐ろしいことだよ、目の玉に針を刺したりして、かえって目が見えなくなっちまうよって思うけれど、なんせ日本でも名高い医者の言うことだと言うし――。
昔から、目のかすみや病気は治らないって言われているのに、なんだか治るなんて嘘のような気がして、あれが町の医者にだまされてるんじゃないかと気が気じゃないんだよ。」
「ほんとうにそうだねえ。そんな生まれたばかりの子にまで、目の病気だなんて言って、かわいそうにねえ。お嫁さんもさぞ苦労するだろうし、ものすごくお金もかかるだろうねえ。」
「へえ、お金持ちの家ならいいけれど、うちらのような貧乏人には、たまらないことさね。」「まあ、何をおっしゃるの、おばさんったらそんなふうに。」
 ばあやんが急に笑うと、おばあさんはますます真剣な声になりました。
そして、ぐっと押さえつけるような声で言いました。
「いいええ、本当にねえ、もう耐えられませんよ。貧乏人のすることじゃありません。――せめて少しは神様仏様を信じる心でもあればいいけれどねえ、第一、あの子には信仰心ってものがまるでないんだから、どうしようもない。信心するだけならお金はかからないって言うけれど、ただもう『医者だ、医者だ』って言ってね。度胸が大きいと言うのか、今の世の中はお金をさえかければ盲目だって治るんだからって、借金をしてでも手術をしてやるんだって、もうすっかり気負い込んで行っているけれどさ……」
 除虫菊(じょちゅうぎく)のきつい匂いがあたりにただよってきました。
ばあやんの家のみかん畑が近づいてきて、青黒く茂った葉っぱのあいだから、黄色い夏みかんがのぞいています。
からたちの生垣のすきまから、ところどころに真っ白な除虫菊の花が咲いていました。
「ごめんねえ」と言いながら、ばあやんは畑の中へ入っていきました。
豚小屋に到着しました。
おばあさんは待ちかねたように畑の端っこで荷を下ろしました。
そして、桶から天秤棒をはずして立てかけ、両手でしがみつくようにして腰を伸ばしました。
それから、「やれ、やれ」と大きいため息をつきました。
健ちゃんもすぐ隣で同じように「やれ、やれ」と肩で息をしました。
すうっとかすかな風が吹き抜けて、汗ばんだ肌に心地よくしみとおりました。
二人とも顔を真っ赤にしていました。
健ちゃんはさっと両手をひろげ、くるくると回りながら空に向かって大きな声で叫びました。
「とんび、とんび、舞い舞いせえ、ほうらく割ったら買うてやろ」

 だけど、とんびは舞っていなくて、空は薄い藍色に広がっているだけでした。
すると、豚たちが見つけて大騒ぎしはじめました。
小屋の木の板の囲いに飛びついて前足をかけ、汚れた顔を出して「ぐうぐう」と呼びかけています。
狭い板敷きの小屋の中をドタドタと駆け回って喜んでいる豚もいました。
健ちゃんは一番端っこの子豚がいるところへ走っていきました。
囲いの板は健ちゃんの背よりも高いので、しゃがみこんで下からのぞき込みました。
豚たちは健ちゃんには見向きもせず、おばあさんのほうへしきりに鼻を鳴らしています。
「おばあさん、早く豚にご飯をやってよ、豚がぐうぐう言ってるよ。早くご飯くれ、早くご飯くれって言ってるよ!」
 健ちゃんはおばあさんのそばへ走ってきて、その前掛けを引っ張り、背の高いおばあさんを見上げました。
「そんなにあわてないでおくれ、まだ日は高いんだから。

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