「せめて、母さんの目さえ見えていたなら、どんなことをしてでも左近将監にうらみの一太刀(ひとたち)を浴びせてやれるのに、何をするにもこの不自由なからだ……。
小金吾、許しておくれ! ふがいない母を許しておくれ!」
おばあちゃんは血の涙をこぼしました。
「だけど、もう母さんの決心はついたよ。
たとえ目がみえなくても武士の妻だ……あしたは将監のお屋敷へ行って、かなわないまでも、うらみの一太刀だけでも晴らしてくるつもりだよ。
母さんがみごとに、おまえの無念を晴らせるかどうか、天国(くさばのかげ)からしっかり見守っていておくれ」
と、まるで生きている人に話しかけるように、おばあちゃんは小金吾の亡霊に語りかけました。
そして、その言葉が耳に入ったのか、小金吾はガックリとうなだれ、そのまま消え失せるように姿を消していったのです。
日が明けると、おばあちゃんは若いお供の八郎太(はちろうた)を大きな声で呼びつけました。
わが子の無念を晴らしてやりたい一心のあまり、自分の老いた体や、目の見えない体であることも忘れ、左近将監めがけて、うらみの剣をむけようと固く心に決めたのでした。しかしおばあちゃんは、固く心に決めていました。どうせお年寄りの体で、左近将監にうらみの一太刀(ひとたち)を浴びせたら、自分も二度と生きて帰れないことはしっかりと覚悟のうえでした。だからこそ、表面では左近将監を油断させるために何食わぬ顔でふるまいながらも、下着類はすべて新しいものに着替え、ふところには竜胆寺(りんどうじ)家に代々伝わる大切な懐剣(かいけん)を深くしまいこみ、朝の霧をかきわけながら山茶花(さざんか)屋敷へと向かったのです。
しかし、ざんねんながらこの悲壮な老母の決心も、ついにむだにおわりました。
早く会ってほしいというおばあちゃんの切実な願いにもかかわらず、左近将監は会おうともしてくれません。
「けっしてお手間はとらせません。ほんのひとめでけっこうですから、あうだけあっていただけまいか?」
と、玄関のまえに土下座せんばかりにお願いしても、
「小金吾どのといえば、当家にまでめいわくが及ぶような家出をなさったばかりか! 親は親で、わが子の不始末を棚に上げて、事件の一部始終を聞きにきたとは、なんたるばかげたこと……子も子なら親も親だ! 世間のおもわくもどうなることやら、早々におひきとりを願いたいと、当家の旦那さまは火のように怒っていらっしゃる!」
と、若党(わかとう)の佐平治(さへいじ)を使いに出して、きっぱりと面会を断ってくるのです。
「おっしゃることはわかりますが、親として我が子が帰らぬ理由を知りたいと思うのは、だれでも同じこと……お目にかかるまでは、お玄関のさきを少しお借りして、何日でも待ち続けます。そう将監(しょうげん)どのに伝えておくれ」
しかし、この卑怯(ひきょう)な家老は、どうしても会おうとはしません。
「当家としては迷惑この上ない! お目にかかることは絶対にまならん! 追い返してしまえ! 佐平治、かまわん、わしが許す、とっととたたき返してしまえ!」
心の中ではおばあちゃんに会うのが少し気まずかったのかもしれませんが、表向きは強がりを言って、召使たちの手前、頭から湯気が出そうなほどかんしゃくを爆発させているような顔をしていました。
困り果てた佐平治が、玄関と奥の間をいったい何往復したことでしょう。
「かねてお耳には入っているかもしれませんが……」
と、とうとう佐平治はすっかり参ってしまい、奥の間に聞こえないようにおばあちゃんの前にそっと手をつきました。
「うちの旦那さまは無類のかんしゃく持ちで、いったん怒りに火がついたら、なにを言っても絶対に聞き分けてくださるお方ではございません。いかがでございましょう? きょうのところはいったんお引き取りいただきまして、またの機会にお越しいただけまいか?」
「おだまり! 家来のあなたまでが、相手が女だと思って無礼なことを言うのかい? 私は竜胆寺小金吾の母! 亡くなった夫・竜胆寺妥女(だじょ)の妻だよ! わざわざこちらから左近将監の屋敷へ足を運んできたというのに、会えないだの帰れだのという無礼なあいさつで、おめおめと引き下がれるものか! 相手を見てものを言いなさい!」
これでは佐平治ひとりでは、どうすることもできません。
おばあちゃんは、玄関のところにどっしりと腰を下ろしたままで動きませんでした。
「竜胆寺さまのご隠居さま……失礼かもしれませんが、温かいお茶でも召し上がってくださいませ」
あまりに見るにみかねて、女中の八重(やえ)がそっとお茶を運んできました。
しかしおばあちゃんは、うつむいたまま振り返りもしません。
「ご隠居さま……どうぞ……お茶だけでも召し上がってくださいませ……」
「ああ……世が世であれば、私は竜胆寺妥女の妻だよ! 家老である石藤左近将監(いしとうさこんしょうげん)風情の家の軒先で、まるで乞食(こじき)のようにうずくまったりするものか!」
おばあちゃんは顔を伏せたまま、はらはらと涙をこぼしました。
「お女中……ご主人さまに似合わず親切にしてくれて、その気持ちはありがたいけれど、たとえ左近将監が自分で立てたお茶だとしても、あんなやつの家の軒先で、犬や猫のように茶を飲むわけにはいかないよ。持って帰りなさい」
とおばあちゃんはやさしく八重をたしなめました。
そして、
「ああ、もうどうしようもないね。八郎太、帰りましょう。会ってくれない人を、いくら待っていたってしかたがない。さあ、帰りましょう……」
ふたたび八郎太の背中に背負われて、ポロポロとくやし涙にむせびながら、やっとの思いで立ち去っていきました。
彼岸(ひがん)のとんぼが飛び交う、誰も通らないような田舎道を、背負う人も背負われる人も、すっかりだまりこんで家路を急ぎましたが、もうそのときには、左近将監を刺そうという気力さえも消え失せていました。疲れ果てた老人の体は、愛するたったひとりの子どもに先立たれて、この世にはもう何の希望もなく、ただ静かに「死」のことだけを考えていたのでしょう。
ふたたび帰るまいと思っていたわが家にもどってきても、あいかわらず床の上にぽつんとすわりこみ、何も言わずに物思いに沈んでいました。
そして、「ニャーオ」となきながらそばへ寄ってきた玉の頭をなでながら、こう語りかけるのでした。
「おまえは利口な猫だから私の言うことがよくわかるだろうが、今夜は私も小金吾の後を追うよ。だけど、主人がいなくなったからといって、けっして私や小金吾をうらむんじゃないよ……」「だれか情けある主人に育てられて、寿命が尽きるまで、長く長くこの世で生きるんだよ!」
とおばあちゃんは、まるで人に話しかけるかのように猫をさとしていましたが、やがて見えない目をまっすぐに向けて、キッと山茶花屋敷のほうを指さしました。
「ねえ玉、よおく聞きおくれ! 小金吾と小金吾のお母さんからの一生のお願いだよ。
どうか百年も二百年もお前はこの世に生き長らえて、主人の敵を討っておくれ! 憎くて憎くてたまらない左近将監に、主人のうらみを晴らしておくれ。
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