あるのは旦那様の足跡ばかりなんでやすがな……」
「だって、俺がこの目で見たんだから、間違いはないよ」
「旦那様、そりゃなにか、旦那様の見間違いじゃねえでやんしょうか? 大きな獣の足跡が……クマみてえな足跡ばかりがあるんでやんす」
吉蔵にそう言われて、博士は裏庭へとまわってみました。ふだんだれも足をふみこまず、おまけに陽の目を見ぬ家のかげなので、土もやわらに青苔がはえて、裏庭から雑木林のほとりまで、吉蔵がいうとおり、博士のはだしの足跡にいりみだれて、大きな獣の足跡が、クッキリとながめられるのです。
「ふうむ……」
と、さすがに博士も、うならずにはいられませんでした。
この足跡は、老婆の肩に一撃をくわせてあとを追いかけ、この雑木林の中で見うしなったときのものにちがいなく、そうすると、あの老婆は獣の足跡をのこしていったことになります。
「ようし、吉蔵、俺にはすこし考えがあるから、このことだけは、だれにも話すなよ。
人にけっしてしゃべるんじゃないぞ!」
「話すでねえとおっしゃれば、しゃべりはしましねえが、……だんなさま、やっぱり、クマでごぜえやしょうがな? この足跡はクマでなけにゃ、ほかに見当もつかねえだ」
「だから、それをしらべるまで、だまっているんだというんだ」
と、かたく吉蔵にくちどめしておいてから、博士は夫人の待っている、茶の間の朝の食卓にむかいました。
もしかすると、またあの老婆が、なにくわぬ顔でやってくるかもしれないぞ! とその日一日博士は、胸をおどらせていましたが、とうとうその日は、老婆はすがたを見せませんでした。
が、やがてその日も暮れかかろうとするころ、またもや博士がひっくりかえるような、おどろくべきニュースがとびこんできたのです。
その日の診察もこれでおわろうとするときでしたが、
「先生、診察ではありませんけれど、東戸松村からお百姓さんが、先生にちょっとおうかがいしたいことがあるって、いってきてますが」
と、看護婦の笠井にあんないされてはいってきたのは、年のころ三十七、八、みるからにぼくとつそうな、陽にやけたお百姓さんでした。
「なにか、わたしにききたいことがあるとか? どういうご用でしょうね?」
と、きがるく博士からうながされましたが、えらいお医者さまの前へでて気おくれしたのか、汗ばかりふいて恐縮しているのです。
が、やっと決心したように、
「どうしてもわしどもにゃハァ、合点のいかねえ話だけんど、もしや先生さまごぞんじじゃねえかと思いやんして、それで、おうかげえしたわけでごぜえやすけんど……先生さまは、おとついふたつばかりになる赤ン坊のできものを療治なさったことァあんめえでやしょうかね?……どうも、ふしぎでたまんにえでやんすが……わしは東戸松村の、白上てえところのものでやんす……」
お百姓の話によると、この白上という辺鄙な山奥にすむお百姓夫婦のふたつになる赤ン坊が、五、六日まえから左の股にできものができて、痛むとみえて、昼も夜もヒイヒイないてお乳もろくろくのまず、夫婦で話して、いちどお医者さまへつれていこうと思いながら、なにせ山奥のこととて、一日のばしにしているうちに、いいあんばいにできものが熟んでふききれて、やっと赤ン坊は泣かなくなりました。
ところが、三日ほどまえに夫婦が野良からかえってきてみますと、いつも赤ン坊をいれておくかごの中が、もぬけのからになっていたというのです。
そこで村中大さわぎしてさがしていましたところ、その日もとっぷり暮れたころになって、だれもいないとなりの納戸から、不意に火のつくような赤ン坊の泣きごえがして、神かくしにでもあったように、赤ン坊がいつのまにかちゃんとかえってきていたというのです。
それにまだふしぎなことは、その三、四時間のあいだに、赤ン坊のできものは、ガーゼや絆創膏でりっぱに手当がほどこされてあったというのです。
しかもそれも素人の手療治などではなく、専門のお医者さまの療治だというので、夫婦をはじめ村人たちも、ふしぎなこともあればあるもんだと、びっくりしてしまいました。
いったいだれが、こういうことをしでかしたのか? しんせつでしてくれたのか、いたずらなのか?
「もうそれからは、家内はまた子どもをかくされやしねえかと、半狂人みてえになっとりやして、仕事も何も手につかねえでやす。
そこでわしもきょうは野良を一日休んで町さきで、医者さまのとこさ軒なみにきいてまわっとるでやすが、もうこれで五人の先生さまに、うかがったでやす。
こちらの先生さまいれて、六人目になるでやすが……」
「ほう!……フウム……」
きけばきくほどふしぎな話ですが、博士には思いあたるふしがあるのです。
「わしどものとこから、ここまで十里近くありやすだ……でやすから、赤ン坊の見えなくなった、ほんの三時間や四時間ぐらいでは、いくら足のはやいもんでも、先生さまのお宅までくるわけのねえことはようくわかっとでやすが、どこできいても知んねえ知んねえおっしゃってでやしたから、念のため、うかげえにあがりましたようなわけで……」
「ちょっとお待ちなさい。「わたしにも、すこし思いあたるところがある……」
先生は相手の言葉をさえぎると、大急ぎでカルテの束を引っ張りだして調べはじめました。
「……東彼杵郡(ひがききぐん)、東戸松村(ひがしとまつむら)、あざ白上(しらかみ)、津田まさ長女、二歳……これだ! たしかにわたしのところにきているぞ。
……わしがこの赤ちゃんの診察をしてあげたんだが……この『津田まさ』という人は?」
「それが、わしの家内(かない)の名前でやすが……へえっ? 先生さまのところへめえっておりやしたかい? いったい、だれがこの子をつれてまいりやしたんでしょうな?」
「おばあさんですよ。
こわい顔をした、六十くらいのおばあさんがね」
「へえっ! 六十くらいのばあさんがですかい? 先生さま、そりゃあほんとうでごぜえやすかね?」
と、男は目を丸くして、ぐっと身を乗り出しました。
「何か、先生さまの人ちがいじゃねえでやしょうか」
「いや、そのおばあさんに頼まれて、わたしがこの手で、あなたのお赤ちゃんのできものを切開してあげたんだから、まちがいないよ。
しかし、女のほうがよく覚えているかもしれない。念のため、妻や看護婦を呼んで聞いてみましょう」
こうなっては、もう奥さんや看護婦たちに内緒にしておくわけにはいきません。
先生は男の前に奥さんと看護婦の平松を呼んで、そのとき赤ちゃんがどんなもようのちゃんちゃんこを着ていたか、顔のとくちょうはどうだったかなどをくわしく聞きだしましたが、男はその赤ちゃんがたしかに自分の子どもにまちがいないと分かるものの、そのおそろしい顔をしたおばあさんだけは、どうしても心あたりがないと頭をふりつづけました。
そしてさいごに奥さんが、そのおばあさんの着物のことについて話すと、
「へえっ! そのばあさんは、ひとえものを着ていたんでやすか!?」
と、男の目がパッと光りました。
「ど、どういうもようのひとえものでやしょうな? じつはそのとき、外にほしといた家内のひとえものが、二枚なくなってたんでやす。
初級翻訳・亡霊怪猫屋敷 第7話
亡霊怪猫屋敷
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