初級翻訳・亡霊怪猫屋敷 第8話

亡霊怪猫屋敷

洗いざらしの、ボロでやすが……」
「下のひとえものはわかりませんけど、上のは、あらい十字がすり(※着物の柄のひとつ)の……まるで三十二、三の女性が着るような、派手な柄でしたわ。
……そのおばあさんが、ずいぶん派手なゆかたを着ていらっしゃったから、それでいまでもよく覚えているんですのよ」
「あ、奥さま! それでやす、盗まれたのはその十字がすりで間違えねえ! わしどもの家内は二十七になりやすから、寸法もぴたりとあてはまるし、それにまちがいはねえでやす」
「まあっ! それではあのおばあさんは、お宅から盗んだ着物を着て……お宅の赤ちゃんをここまでつれてきたっていうんでしょうか? まあ、なんておそろしい……いったい何ていうおばあさんなんでしょうね!」
 と、奥さんはあまりの恐怖に、からだをブルブルとふるわせました。
それにしてもふしぎなのは、この農夫の足でさえまる一日かかるほどの遠い道を、わずか三、四時間のうちに平気で行ったりきたりしていることです。
あの老婆の正体は、いったい何者なのだろうか? ということでした。
しかも奥さんは、これだけの話を聞いただけでこれほどふるえあがっているのですから、昨夜あの老婆が家の中をのぞきまわっていたことなんかを知ったら、それこそどれほどおびえきって、家中が大さわぎになってしまうかわかりません。
それを思うと、必要以上のことはいっさい言うまいと、先生はよりいっそうかたく口をむすんでしまうのでした。

*   *   *

 今朝、足跡を見つけて吉蔵にくちどめして以来、先生はこの老婆の正体について、頭をなやましぬいていました。
そこへもってきて、いまの農夫の言葉を聞けば、その神出鬼没(しんしゅつきぼつ)の早わざには、まったくおどろかずにはいられません。
もはやここまでくると、この老婆はけっして人間ではありません。
たしかに、妖怪変化(ようかいへんげ)のたぐいです。
その妖怪変化のたぐいが、おとといも来て、またゆうべも、真夜中に足音をしのばせ、すきあらばこの家をおそおうとして庭をうろつきまわっているのですから、さすがの快活な先生も、なんとも言いようのないおそろしさを感じずにはいられませんでした。
「おそろしいわね……」
「とても、こわいわ……わたし……」
 お百姓が帰ったあとも、もう自分たちの部屋へひっこむどころではなく、看護婦も女中も、奥さんといっしょに茶の間にひしとかたまって、青い顔をしてふるえているかたわらで、先生はひとり黙々と腕をくみながら考えこんでいました。
だいいち、かりにあの老婆が妖怪変化だとしても、いまの世の中にそんな妖怪なんというものがいるのでしょうか? よしんばいたとして、その妖怪変化がなぜこうまでもしつこく先生の家をねらっているのでしょうか? 考えれば考えるほど、まったくわけがわからなくなってくるのです。
そこでその晩は、家中みんながせまい茶の間にあつまって、ほとんどだきあうようにして雑魚寝(ざこね)をすることにし、ただ先生と車夫の吉蔵だけが、枕元にお酒をとりよせて、一晩中目を光らせて夜をあかすことにしたのでした。それでも一同は、風にガタンと雨戸がなったり、きしんだりするごとに、すわこそ老婆がしのびこんだか? と、安き心地もありません。
 飲んだお酒にもサッパリ酔わず、一刻も早く東の空がしらんでくれればいいと、そればっかりがたのみだったのです。
 さすがの老婆も、このただならぬ気配を察したものか、その晩はべつだんあらわれたようすもありませんでした。
 が、女たちがこんなふうに震えあがってしまったのでは、これからさきこのひろい屋敷で、夜をすごすことができませんし、また博士のからだもたまりません。
 そこで翌日はとうとう、つめかけてくる患者をことわって、吉浦にすむ夫人のお兄さまにたのんで、このわけを話して、屈強な男たちを二、三人かりてこようと、でかけることにしました。
「きょうは義兄さん、内証であなたにすこし、おたのみがあってきたんですがね」
 と、博士はさっそく話をきりだしました。
 ふしぎな老婆のきたことから、あの猛犬の五郎丸の奇怪な死、そしてそのあくる晩博士の手の甲につけられた爪傷が、五郎丸の爪傷とまったくおなじであったこと、さらに東戸松村からきたお百姓のことまで、のこるくまなく話されたのです。
 お兄さまは、はじめのうちこそ笑い顔をしていましたが、あまりのふしぎさに、これをそのまま信じてよいのかどうかに、こまりきった表情をされました。
「きみのようなりっぱな学者にわからない話を、ぼくには、どうも……こまったね」
 と、ためいきをもらされるほかはないのです。
「まさかいまごろ、妖怪変化がでるとも思われまいし、……しかしきみのたのみは、しょうちしたよ。
あんなところにすんでたら、さぞ淋しかろうと、内々ぼくも気にかかっていたんだよ」
「わたしも、こんな話をもちこんだら、さぞ義兄さんに笑われると思ってたんですが、そうかといってほかに相談する人もないし、また話したところでなかなかわかれませんからね。
ですが、もうこのままにはしておけないのです。
第一、あのからだの弱い頼子が心配ですからね」
 お兄さまは、ふかいものおもいにしずみながら、ポツリポツリと話している義弟の博士の顔をながめていられましたが、なにか、ふと思いだされたように、
「ああ待ってくれ、靖彦君……いまひょっと思いだしたことがある。
あ、そうだった。
そうだった。
あの了福寺の和尚だった……」
 と、膝をたたかれました。
「靖彦君……きみの話の腰をおるようですまんが、どうだい? ここから半道ばかり奥に、了福寺という寺があるんだが、いまからぼくといっしょにそこまで、いってくれないかね?」
「なぜ、そんなところへいくんです?」
「きみたちがまだ東京にいる時分のことだが、そこの和尚がいちど、なにかのついでに、ぼくに、あの屋敷をね――いまきみたちのすんでいる家さ――あの家をおしがらずに、ひとおもいにこわしてしまえ! と忠告してくれたことがあるんだよ。
いまそれを思いだしたんだ。
そのときは、坊主め何をくだらんことをいう! と思って、気にもとめずにききながしていたんだ。
いまきみの話をきいているうちに、家をこわせといった和尚の話に何か関係があるように思われてきたんだよ。
なぜあの家をこわせといったのか? そのわけを、きみとこれから和尚のところへいって、きいてみたいんだよ」
 正直なところ、博士はあまり気がすすみませんでした。
 むかしの化けもの話ではあるまいし、そんな年をとった田舎寺の坊主のいったことばなどを気にして、きいてみたところで、なんの役にたつわけでもないし! と思っていられたのです。
 しかし、お兄さまがせっかく親切にいってくださるのを、無下にことわるわけにもいかず、とうとうつれだっていくことになりました。
 その了福寺は、この吉浦の町はずれから田圃をこえて、山道へわけいった早岐よりの、高い石段をのぼっていった、老樹にかこまれて、なんともいえぬしずけさをたたえた、山寺でした。

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