初級翻訳・亡霊怪猫屋敷 第23話

亡霊怪猫屋敷

……ああ、おどれえた! おらはァたまげてしまいましただよ」
 しかし、お八重さまとよばれた女はなにひと口もききません。
ただ目ばかりすごい底光りをはなっているのです。
と、いうことになりますと、おや! とみなさまはびっくりなさるかもしれません。
お小姓街道を走っていた八重が、思いなおしてまた左近将監の邸へかえってきたのかとお思いになるかもしれません。しかし、ほんものの八重ならば、いま確実に息を切らせながらお小姓街道を村の方へと必死に走っているところです。
殺されると分かっている恐ろしいお屋敷へなど、どうして戻ってくる理由があるでしょうか。
しかも、いまそこにたたずんでいる八重は、姿形も着物もほんものの八重と一ミリも変わりませんが、ただ目の光だけがまったく違います。
ほんものの八重は、決してこんな恐ろしい目つきはしないのです。

「お八重さま、どうなさったんですか? すごく黙り込んで、そんなに怖い顔をされて……」
 とお稲がもう一度声をかけたとき、初めて八重が口を開きました。
「人に聞かれたら大変なことになる。もっとそばにお寄り!」
「なんだか今夜のおまえさまは、すごく怖く感じるだよぁ」
 と田舎者のお稲は気味の悪そうな声をだしました。
「何も怖いことはありません。もっとそばにお寄り! 人に聞かれたら大変だから」
「なんの話だかねぇ……おら、気が小さい方だから、あんまり脅かさないでくれよぉ」
 と、おそるおそる近づいてきた下働きのお稲の耳に口をつけて、八重が一言なにかささやいたと思った瞬間、この下働きはガタガタガタガタと、止まらないほど震えだしました。
顔色が一瞬で真っ青になり、言葉も出ません。
「それじゃあ……おら……今夜……だんなさまに手討ちにされるって? ああ、どうしよう、どうしたらいいべぇ……おら、何も悪いことなんてしてないのにさぁ……!」
 と、おいおいと声をあげて泣き出してしまいました。
「おまえ、助かりたいか?」
「お八重さま、人生一生のお願いだぁ、助けてくだせぇ……おらは田舎に年老いたお父ちゃんとふたりきりなんだぁ……おらが死んだらお父ちゃんがどんなに悲しむか分からないだべなぁ……お八重さま、一生の恩にきるだ。どうか助けてくだせぇ……!」
 ポロポロとあられのような涙を日に焼けた頬に伝わせながら、八重にしがみつきました。
「では、わたしが内緒で助けてあげる! すぐにお逃げ! 荷物はそのままでいいからすぐにお逃げ!」
「逃げるだぁ! 逃げるに決まってる! おらもう、こんな恐ろしいお屋敷には一刻いられないくだぁ……!」
「だんなさまに見つかったら、おまえにもう命はないよ。反対の道をお逃げ! お小姓街道を村の方へお逃げ! さあ、ここにお給金もわたしが持ってきてあげた。手をお出し!」
「お八重さま……おら……もう……ほんとうに、おまえさまのご親切には……」
 と、下働きは涙に濡れながら両手をあわせて、八重をありがたそうに拝みました。
左近将監はこの下働きのご主人様に違いありませんが、こんな下働き風情に城代の左近将監が直接言葉をかけることなんて絶対にありません。
藤はお金の出し入れ、その他将監の身の回りのこまごました用事をこなし、八重は着物や食事の用事を承る奥女中でしたから、こんな台所の下働きにとっては、八重のほうこそ、どんなに優しくて直接的なご主人様のように思えたのかもしれません。

やがて、着物を包んだ大きな風呂敷を背負ったこの下働きと八重の姿は、連れ添うようにして、すっかり夜の闇が垂れ込めた台所の入口の外へと、あわただしく消え去っていきました。

しかし、ちょうどそのころ、遠い玄関の方からは、
「おかえりィ! だんなさまのおかえりィ!」
という叫び声が聞こえて、だいぶ賑やかに人の足音が近づいてきたようです。
しかし、遠く離れたこの台所だけは、シーンと静まり返って人影ひとつなく、ただ煮物がぐつぐつと煮える音だけがして白い湯気を立ち上らせていましたが、やがてまた戸口から、そっとあたりを見回しながら入り込んできた黒い影がありました。
お稲を送り出した八重かと思いきや、もう八重の姿はなく、なんとそれはたったいま送り出されたばかりの下働きのお稲だったのです。
しかし、これもほんとうのお稲とはだいぶ違います。
目がギラギラと異様に光って……だいいち、ほんとうのお稲ならば、大きな風呂敷包みを背負って、いまごろは転びそうになりながら必死になってお小姓街道を村のほうへと逃げ走っていたはずです。
それに、こんな恐ろしいお屋敷になんて、何のためにのこのこと戻ってくる理由があるでしょうか。

ご覧なさい、いま入ってきた怪しげなお稲を!
ギラギラと底光りする瞳をあちこちに配りながら、抜き足差し足でそっと流し元へと近づいていくではありませんか!
そして、そこに置かれている上がりかまちの薄暗い行灯の光に照らされながら、もう一度奥の方へと鋭い目を配ると、なんと不思議なことに!
人間の女のくせに、まるで野獣のように耳をピクピクと二、三度震わせて、あたりの気配にじっと耳を澄ませているのでした。その手がそろそろと動いて、いま煮えている鍋のふたを取りました。
帯の間から取り出した紙包みの白い粉を、ザラザラと流し込むと、何食わぬ顔でしゃもじを使って静かにかき混ぜています。
そしてやがてまたふたをし、耳を動かしながらニヤッと笑みを浮かべてあたりを見回したその顔つきの恐ろしさといったらありません!
しかし、まさにその瞬間でした。
たちまちこの不気味な下働きは、何に驚いたのか、恐ろしい形相で飛び上がりました。
「な、な、な、何をしてやがる、この女め! ふてぶてしい真似をしやがって! な、な、何を入れやがったんだ、だんなさまのお食事の中に!」
と、飛び込んできた者がいたのです。
いま左近将監の供をして帰ってきたばかりの、若党の佐平治だったのです。
「おい女! 逃げる気か?」
手首をつかんで引き寄せながら、佐平治は目を怒らせました。
「おかしな真似をしてやがるとは、人が入口から見ているとも知らずに。おい、だんなさまがお召し上がりになるものの中に何を入れた! おいお稲、誰に頼まれてお前は毒を入れたんだ? うぬ、逃げる気だな!」
逃げる気かも何もあったものではありません。
つかまれた手を振り切って、女は身を翻そうともがいています。
たちまちドタバタとものすごい大騒ぎが始まりました。
「うぬ、こいつ、女のくせにものすごい力だ!……あ、いけねえ!」
あっという間にドシーンと、佐平治はかまどのそばへたたきつけられました。
起き上がって逃げようとする女に再び組みついていく。
ドタンバタンと上になり下になり、はね飛ばされ……また押さえつけ……。
「いけねえ! こいつは女のくせに恐ろしい力を持った化け物だ!」
佐平治は息を切らし始めました。
「うぬ、この野郎! 引っかきやがったな!」
よほど深く爪を立てられたとみえて、佐平治の手の甲を伝ってポタポタと血が流れ出しました。

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