この納戸の中へ自分より先回りして入っていただけでも驚きなのに、よく見ればお藤はいつの間にか、頭の手ぬぐいを取り、たすきも外し、着物の裾を下ろしてきちんと整え、そのうえ手に小さな風呂敷包みまで持っているではありませんか。
こうなってくると、もはやこの「お藤」という女は、人間の業とは思えない不気味さを漂わせ始めていたのです。
しかも、お藤は相変わらず一言もしゃべりません。
「どうしたのよお藤さん、なんでそんな怖い顔をして、私の顔ばかりじっと見つめているのさ?」
となにげなくすり寄った瞬間、お藤の目がギラリとものすごい光を放ち、喉の奥から無理やり押し出すような、妙な声を発しました。
しかも八重は気づいていませんでしたが、その声はなんだか酷くかすれていて、たった今玄関で言葉を交わしたお藤の声とは到底思えないような、不気味な響きだったのです。
「お八重さん、あなたは殺されたいのかい?」
「何を冗談言ってるのよ。
世の中に、わざわざ殺されたい人間なんて一人だってもいるもんか!」
と八重がせせら笑った瞬間、かすれたようなお藤の第二の声が飛んできたのです。
「旦那さまがね、あなたを手討ちになさるっておっしゃっているそうだよ」
「私がお手討ちに? 私がお手討ちになるんですって!? 一体私、お手討ちにされるような悪いことなんて、何かしたっていうの!?」
と、八重は真っ青になってブルブルと震え出しました。
「だ、だ、誰がそんなこと言ったの!? 一体誰からそれを聞いてきたのよ!?」
「いま若党の佐平治さんが、一足先に飛んできて……は、早くあなたを逃がしてやれって、私に教えてくれたのよ。
だから、私があんたに早く知らせてあげようと思って……こうして荷物まで持ってきてあげたの。
さあ、早くお逃げなさい! もうすぐ旦那さまがお帰りになってしまう。
帰ってきたらもう間に合わないよ。
さあ、早く早く、この荷物を持って!」
「ああ、もう私……どうしたらいいのかしら……! なんにも悪いことなんてしてないのに……!」
と途方に暮れて、八重はオロオロと今にも泣き出しそうな顔をしています。
「そんなことをいくら言ったってはじまらない! 癇癪(かんしゃく)が起きれば見境なく人をブッタ斬りになさる旦那さまのご気質は、あんただってよく知っているでしょう? さあ、もうすぐ旦那さまがお帰りになっちゃう。
私もいつまでもこうしてはいられないんだから。
さあ、もう私は玄関の方へ戻るよ!」
「あ、お藤さん待って、待って、ちょっと待って……おねだりだからちょっと待って!」
「あんたを助けたことが知れたら、私まで同罪になっちゃうよ。
あんたの巻き添えを食うのは私も真っ平ごめんだからね!」「さあ、もうわたしはいくよ」
「待って! 待って! 待ってちょうだいったら! 後生だからお藤さん、待ってちょうだいよう……わたしはいったいどうしたらいいんでしょう?」
「だから、殺されるのがいやだったら早くお逃げといってるじゃないか!……人がせっかくしんせつにおしえてあげてるのに!」
「お藤さん、わたしがにげたあとで、あんたにご迷惑がかからないかしら」
しかしそれに返事はなくて、
「お八重さん、あんたの在所は久留里村だとおいいだったわね」
と藤は何か思案するように帯のあいだに手をさしいれました。
「さ、わたしこれだけお金も用意してきてあげたわよ。
どうせお給金も何ももらえはしないんだから……これだけあったら当分こまりはしないでしょう?」
とキラリと目を射るような小判を三枚……そのころの金としては莫大な金額というべきだったでしょう。
「まあお藤さん、あんたはしんせつな、しんせつな……なんというしんせつな……」
と、とうとう人のいい八重は泣きだしてしまいました。
「おや、だんなさまがおかえりになったんじゃないかしら?」
と藤はきき耳をたてました。
そのだんなさまがかえってこられたが最後、八重! そこになおれ! 不埓千万な! 手討ちにいたす!……それを考えるともう、八重は生きたここちもありません。
「さあ、それじゃこうしてはいられない!……お藤さん。
あんたにはいろいろお世話になって……お礼はことばにはいいつくせない! いまにきっとご恩返しはしますから……」
「よけいなことはいいから、さ、早く裏から逃げて……町のほうへ逃げてはいけないよ、だんなさまと途中であったらたいへんだから! 命はありませんから!……道へでたらお小姓街道をスグ右のほうへお逃げ!」
もし八重の心さえすこしおちついて冷静であったならば、あるいはそのとき、藤のことばをいぶかしいと感じたかもしれません。
だいいち、じぶんの身に思いあたるなんの落度もないのに、いくら癇癖もちだからとて、そうそう左近将監が斬ったりハッたりしようはずもないことです。
しかも、それをおしえにきてくれた佐平治が、かんじんの本人につたえないで、藤にだけつたえたということも、考えてみれば妙なことですし……そしてとりわけふしぎきわまることは、はじめにもいったように、玄関さきで話してきたばかりの藤が、八重よりさきにどうして納戸の中にはいっていたかということなのでしたが、気のどうてんしている八重には、もうそこまで物事を考えるおちつきを、まったくうしないきっていたのです。
そして藤にワッワとせかしたてられるままに、魂も身にそわず、ふるえながら八重は、そのまま夕闇にまぎれて左近将監の邸を逃げだしていました。
そして逃げだしていった八重のうしろすがたを見送りながら、ニヤリとすごい笑みをもらして藤がすがたを消すと、こんどはいれかわりに拭き掃除をすませたほんものの藤が、
「まあ、お八重さんたらどこへいったんでしょうねえ……もうじきだんなさまがおかえりになるというのにねえ」
と、ひとりごとをいいながら、間ごと間ごとをさがしまわっていたということを、いま必死になって村のほうへとお小姓街道を逃げている八重は、神ならぬ身の、露いささかもしるはずはなかったであろうと思われます。
恐ろしき毒薬
八重が、お小姓街道を魂も身にそわず走っているちょうどそのころおいに、まだ奉公にきてまもないお稲という下働きの下女が、うすぐらい台所の土間で、しきりにだんなさま左近将監のおかずごしらえをしていましたが、そこへ足音もたてずにまるで陽炎か狭霧のようにしのびやかにはいってきたものがありました。
ことばもなくしずかにちかよって、せっせと働いているお稲のうしろにたたずんでいるのです。
夕闇はひろい台所のなかいっぱいにただよっていますし、かまどの下では薪が炎をあげ、フツフツと大釜は煮たっていますし、せわしく鍋の中へ箸をつっこんで、煮物の味加減をみているお稲は、うしろにだれかたたずんでいるともしりません。
やがて、ふとなにげなくうしろをふりむいたとたん、ヒャーとしりもちをつかんばかりに、この山だしの下女はおどろきの声をあげました。
「まあ、おどれえた。
お八重さまではねえだかね、なんておまえさま、こわい顔をしてそんなところに立ってらっしゃるだね。
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