初級翻訳・亡霊怪猫屋敷 第35話

亡霊怪猫屋敷

 そのため、その過去帖のページには「関係のない者には決して話してはならない」と、恵善和尚自らの手でしっかりと書き残されていたのです。しかし、本堂にはもうひとつ、その時代に作られたらしい古ぼけた小さなお位牌がひっそりと佇んでいました。
 あまりにも長い年月が流れたせいで文字もはっきりと読めず、いったい誰のためのお位牌なのか、和尚さんにもずっと長い間わかりませんでした。けれども、この過去帖を読んだときにふとひらめいたのは、「のちに弔ってくれる人もいないのをかわいそうに思って、あのとき恵善和尚が作ってあげた、小金吾と小金吾のお母さんのお位牌なのではないだろうか」という、和尚さんの想像だったのです。

「いったい、その化け猫は、いまもまだ生きているのでしょうか?」
 耐えきれなくなった博士は、思わず身を乗り出さずにはいられませんでした。
「そんなわけがあるものか……百七十年も昔の化け猫が、どうして今でも生きているはずがなかろう」
「では、さっきからおっしゃっている化け猫の呪いというのは、どういうことなのですか?」
「だからこそじゃよ。
わしはあれを、化け猫の恐ろしい怨霊のしわざだとこう見ているのじゃ。
化け猫というのはさっきも話したように、お手伝いのお稲に化けていたときに左近将監から受けた傷がもとで死んでしまったが、その死にぎわの強烈な執念がだな……獣の怨霊となって、今でもあの屋敷のどこかに残り続けておる。それがさまざまな不気味な現象を起こしたり、呪いをふりまいたりしておるのだと、わしはにらんでおるのじゃ。
いやはや、世の中で獣の執念ほど、おそろしくて不気味なものはないのう」
「ですが、それならば和尚さん。
どうして左近将監などとはなんの血縁もゆかりもない私たち家族にまで、その怨霊は呪いをかけてくるのでしょうか? そこがどうにも、私には納得がいかないのですが」

 和尚さんは目を閉じたまま、じーっとなにかを考え込んでいましたが、しばらくしてから、
「健一さん、ちょっと変わったことを聞くようじゃがな」
 と、お義兄さまのほうへ視線を向けました。
「あんたの家の屋号は、昔から和泉屋と言っておるそうじゃが……その和泉屋をはじめた一番最初の先祖の名前をご存じかな?」
「くわしいことは知りませんが、たしか佐平治とかいう名前だったと聞いておりますが」
「そう、それじゃよ! それならあんたにも理由がわかるじゃろ?」
 と、和尚さんの目はふたたび博士のほうへと向けられました。
「和泉屋佐平治……それこそが、恵善和尚にお願いして追善供養を営んだ、あんたの奥さんや健一さんのご先祖であり、あのときたった一人だけ左近将監の屋敷から逃げ出した若党の佐平治なのだよ。
これで、疑問もすっかり晴れたじゃろう? ……化け猫にしてみれば、憎くて憎くてたまらない左近将監の一族の者たちは残らず食い殺してやったものの、たった一人だけ、左近将監に味方した佐平治を取り逃がしてしまったことが、悔しくても悔しくても仕方がなかったのじゃろう。
その佐平治の子孫である――つまりあんたの奥さんやあんたたちが、こんどあの屋敷に入ってきたものだから、さっそく怨霊が呪いをはじめたのじゃろうと、こうわしは踏んでおるのじゃ……」

 聞けば聞くほど、長い年月を経た獣の怨霊の執念深さに、心からの恐怖を感じずにはいられませんでした。

老僧の忠告

「お願いします、和尚さん。
いったいどうすれば、この恐ろしい災難から逃れることができるのでしょうか? どうか私たちを救い出すための方法や知恵を、貸していただけないでしょうか!」
 とお義兄さまは、必死の面持ちで和尚さんにすがりつきました。
「さっきからお話をうかがっていても……妹の身が心配で心配でたまらないのです。
実のところ、義弟はあそこで医者を開業しておりますが、もう医者の仕事などどうでもいいのです。
あんな家は、もう明日にも引き払わせるつもりでいます。
当分の間は、わたくしの家に一緒に住んでもらうつもりでいますが、それまでの引っ越しまでの間でも、もしまたあんな恐ろしいことが起きたらと思うと……気が気ではないのです。
どうか、災難をうまく逃れるための良い方法はないものでしょうか?」

 このような常軌を逸した恐ろしい出来事の前では、いまの時代の学問や科学の力など、何の役にも立ちません。
「いまの世の中に、そんな馬鹿げたことがあるものか」などと笑い飛ばしていたら、この恐ろしい怨霊のせいで、どんな悲惨な事件が再び引き起こされるかしれなかったのです。もはやこの恐ろしい危険から救っていただくためには、何としても、朝晩仏様に仕え、世の中の長い経験を積まれた、こうしたお坊様の知恵を借りるほかには方法がないとお義兄さまは考えられたのでしょう。
そして、その思いは博士にとっても全く同じだったのです。
先ほども言いましたように、博士はここへ来るまでは立派な学者として、東京大学の医学部の助教授まで務められていた方ですから、本来ならば「何を馬鹿げた話ばかりして、この山寺のもうろく坊主め!」と、一言のもとに笑い飛ばしてしまわれる立場の人だったかもしれません。
しかし、このあいだから身に降りかかっている、あのおそろしく奇妙な出来事を思い出すと、もう全く、生きた心地もしないのです。
「お願いします、和尚さん、どうかひとつ、ぜひ良い知恵を貸していただけませんでしょうか」
と、博士も深い心配の色を顔に浮かべながら、言葉少なく、必死に頼み込みました。
左右からすがりついてくる二人に向けて、老僧は目を閉じたまま、
「わかっとる、わかっとる! よーくわしにはわかっとるから、いまその方法を考えているところじゃよ」
と、長いあごひげをしごきながら、じーっと何か深い物思いに沈んでおられました。
やがて目を開けられると、
「お願いされなくても、わしのできることは何なりとしてあげるつもりじゃが、困ったことに、これは容易ならぬ相手でのう。
長年仏様に仕えてきたわしにも、なかなか良い考えが浮かばないのじゃよ。
それでさっきから、ずっと考えておったところなのじゃ」
と、深い溜め息をもらされました。
「ともかく一番安全な方法は、あの屋敷を今すぐ出てしまうことじゃ。
そしてあんな家は、すぐに取り壊してしまうこと……これよりほかに安全な方法というものはないのじゃが、しかしそんなことをいくら今ここで繰り返してみたところで、急場の間には合わない。
それに、相手は容易ならぬ怨霊のことだから、いよいよお前たちがそこを出るとさとれば、どんな異変を起こさないとも限らないし……これはよほどよく考えてみんとな」
と和尚さんは腕を組んで、じーっと目を閉じられましたが、夕暮れが迫ってくる中で、帰りを急ぐ二人にとっては、その目が閉じられている時間がどれほど長く感じられたことか分かりません。
「しかし、こうやって考えている間も、いちばん気にかかるのは、あんたの奥さんの身の上じゃ」
と和尚さんは博士の方を向かれて、
「よろしい、ほかにこれぞという方法も見当たらない。

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