初級翻訳・亡霊怪猫屋敷 第36話

亡霊怪猫屋敷

しかたがない、ひとつこうしてみたらどうじゃろう」
と言われるには、一番怨霊から狙われて危険にさらされているのは、博士よりもむしろ、和泉屋佐平治の直接の血を引いている奥さんの頼子(よりこ)の方なのです。
だからお前は、帰りに健一さんのところへ寄って、屈強な若者を二、三人連れて山茶花屋敷へ帰りなさい、と教えてくださるのです。
そんな若者たちが何人いたからとて、こうした目に見えない怨霊に対しては何の役にも立たないかもしれませんが、もつとく死霊というものは、明るいところや賑やかなところを嫌う性質だから、元気の良い若者たちを連れていって、酒でも飲ませて寝ずの番でもさせておいたら、少しは災難よけの役立つかもしれないというのです。
「だが、しかしその場合、健一さん、あんたはあの屋敷へ近づいてはならんよ。
博士の奥さんの頼子さん同様、あんたも佐平治の血筋として、怨霊に狙われる危険が十分にある」
だからあんたは、その若者たちを家へ連れて帰ったら……と、今度は博士に向けてこう言われるのです。
「すぐに荷造りをして、引っ越しの準備にとりかかるのじゃ。
ただし、その場合にくれぐれも注意しておくことは、たとえ引っ越しが明日じゅうに終わらなくても、日が暮れたら荷物のことなど何もかまわずに、みんなを連れて屋敷を出て、町の宿屋か何かに泊まるのじゃ。
命あっての物種だから、必ず夫人の頼子さんといっしょに外へ出て、あの屋敷で夜を過ごしてはならぬぞ。
そして夜が明けたらまた家へ戻って荷物を運び出し、夕暮れになったらまた家を出る。
そんなことを二、三日も繰り返していたら、引っ越しもできるじゃろう」
というのでした。
「どうじゃな、わかったかな? わしの言うことをかたく守ってくれないと、どんな間違いが起こるかわからんからのう。
あんなおいぼれ坊主が、何を馬鹿げたことを抜かしやがるなどと、わしの言うことに疑いを持ったりすると、とんだことになりますぞ!
だが、これだけではまだ心もとない。
だからこれからわしが、お経を読みながら、ありがたい仏様の名前を書いたお札を作ってしんぜよう。家へ帰ったら、あんたはさっそくこれを、部屋ごとに、鴨居(かもい)と敷居のきわの二箇所ずつへ貼りなさい。
死霊というものは仏様の名前を嫌うものだから、こうしておけば庭へは入ってきても、まさか家の中までは入ってこないだろう」
と、親切な和尚さんは、のこりなく細かく指図をしてくださいました。
そして付け加えておっしゃるには、
「その場合くれぐれも注意して、かならず一間(ひとま)たりとも忘れることなく貼るのだよ。
ここはいいだろう、あそこはいいだろうなどと、一部屋でも貼り忘れたら、そこから大変なことが起こらないとも限らないからね。
よろしいかな? よくおわかりになったかな? では、さあ、こうしている間も気がせく、あの屋敷はみんなで部屋がいくつあるかな? なに? 十六間? その十六間の中にはふだん使わない部屋も入っているのだろうな? 一部屋でも忘れたら危険じゃよ!」
和尚さんから、くれぐれも念を押されて、博士は十六間に間違いありませんと答えられましたが、今にして思えば、博士はなぜあのとき、もっと和尚さんが念を押されたことにようく注意して、もっと慎重に指を折って、屋敷の部屋数を数えてみられなかったのだろうかと、まことにそれが残念でなりません。
ともかく博士から十六間にちがいないと聞かされた和尚さんは、さっそくお経を唱えながら合計三十二枚の護符(おふだ)を書いてくださるのでした。
さっきお茶を運んできた小僧二人も、和尚さんにあわせてお経を唱えているとみえて、奥の和尚さんの居間からは、木魚の音とともに、寂しい山寺の夕暮れにただよって、とぎれとぎれに読経の声が聞こえてまいりました。

護符を忘れた座敷

さて、心の中では苦笑しながらも、和尚さんの書いてくださった護符をふところにおさめ、熱く和尚さんにお礼を言って、お義兄さまとともに博士は山を下りられましたが、やがてこのお義兄さまの吉浦の家へ寄って、屈強な若者三人ばかりを連れて、ようやく我が家のある大村の停車場へ帰りついたのは、もう夜もだいぶ更けている頃だったでしょう。
お義兄さまからわけを聞かされても、まだあのおそろしい老婆を一度も見たこともなければ怖い思いをしたこともない、これらの漁師上がりの若者たちは、いずれも元気いっぱい、はち切れんばかりの勢いでした。
小さいときから海で暮らし、いずれも劣らぬ銅色(どういろ)の肌をして、もりあがった筋肉を持つ命知らずの若者たちは、生まれてまだこの世の中で「怖い」ということを知りません。
「先生さま! 心配なさるこたァねえでがすヨ。
吉浦の旦那様は妹思いのお方でえらく心配してござるようだが、なあに幽霊が出ようが鬼が出ようが、おれたち三人もありゃあ、気の利いた化け物ァ向こうで驚いて引っ込んじまうでがさァ」
「そうともそうとも! 八の言うとおりでやす。
おれたちにゃ、かえって猫の化け物めが出てくれたほうが、ありがてえくらいのもんだァ! でやがったら畜生、薪(まき)の棒でぶっ叩いて半殺しにしてやるでがさァ」
「山吉! てめえの半殺しにした猫の化け物を吉浦さ引っ張って行って見世物にしたら、さぞ見物が来てもうかるべえなァ」
怖いもの知らずの若者たちが、幽霊が出るの、怪猫の化け物が出るのと聞かされて、いさみについまい、内心大喜びで出かけてきているのですから、その元気のよさといったらお話になりません。
なにしろこれでは怨霊のほうで出るのを見合わせにするだろうと思われんばかりの元気さです。
この若者たちの姿を見ていると、博士の気持ちもなぜか引き立ってきました。
現代の医学を修めた立派な医学博士ともあろう身が、あんな山寺の老僧などの愚にもつかぬ護符をありがたくいただいてきたことが、いまさらこの若者たちの手前、なんだか恥ずかしいような気持ちさえしてきましたが、停車場から半里(はんり)の暗い夜道も、このたくましい若者たちの威勢のよい話に励まされて、いつの間にか頼子たちの待っている山茶花(さざんか)屋敷の門までたどり着いたのです。
そして、屋敷の中では、帰りのおそい博士の身を案じて、頼子をはじめ看護婦の平松や笠井、女中のおもとや車夫の吉蔵たちが、どんなに博士の帰りを待ちわびていたかは、もはやくどくどと申し上げるまでもありますまい。
元気な若者たちの声とともに、博士の帰ってこられたのを知ると、
「ほうら! 旦那様のお帰りだ!」
と、みんな生き返ったようにホッとして、玄関へ転がり出てきました。しかもそこには、
「若奥さま、しばらくでごぜえやす」
「若奥さま、今晩は!」
と口々にあいさつして、銅色のたくましい顔をならべた雲突くばかりの大男が、三人までもニョッキリと、突っ立っているではありませんか!
「まあ! 八蔵に山吉じゃないの? 与助までも! みんなきてくれたの? まあ、たすかったわ! おまえたちがきてくれたら、もう千人力よ。
さあそんなところにたってないで、はやくあがってちょうだいよ! もとや、吉浦のお兄さまのところから、三人もきてくれたわよ。

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