初級翻訳・信太妻の話 第2話

信太妻の話

二

さてここまでは、書物の世界のことだから、書物の知識が直接に伝説の中に取り入れられるということも考えられるのだが、ここから先は、用心がいる。
伝説の世界には、どの本が種本になったというようなことは言えない。
これこれの本にあることが記録される以前に、影響を与えたかもしれない。
これこれの地方の伝説はこれとよく似た、割合古い種を持っているようだ、位のことしか言えないのだ。
そのわからないものの値打ちを、だんだん探して行くと、我々の祖先の生活に対して、極小さな、けれども大きな組み立てを暗示するところの一つの見当が、立ってくるのである。
まず小口から片づけて行く。
全体、妻の姿をした者が、同時に二人現れて、夫が迷うという型の話は、古くからある。
今昔物語にあるのなどは著しい例で、道に立っていた人妻を見て、その姿になって、亭主をだまそうとした狐の話と、狐が乳母に化けて、本の乳母と子供を奪い合うのを、雅通中将が判断に迷った話、殊に瓜二つとも言うべき話が、並んで出ている。
その系統の伝説から段々筋を引いてきて、近松の『双生隅田川』になったのが、劇としては『隅田川続俤』まで遥かに続いている。
二人のお組の片方は、野分姫の霊と法界坊の霊とが、絡み合っている。
出雲は趣向だけを敷き写しにとって『大内鑑』では、二ところまで、役に立てている。
安倍野村の段ばかりでなく、信太の森でも悪右衛門の駕籠を担ぐ奴が三人出て、名高い「われがおれか。おれがわれか」という問答になっている。
二人妻ではないが、似た話がある。
江戸の極浅い頃にできたのだろうが、板行せられたのは、出雲あたりの死んだ後の物なる、鈴木正三の『因果物語』というものの中に、出羽の最上の商人、京へ出稼ぎして、京女を妻にしたが、用事で国元へ戻ると京の妻があとを追ってきた。
商人は最上の妻を追い出して、京の妻を家に入れて子を産ませた。
その後再び、男が上京して、定旅籠に来ると、亭主の言うには、お気の毒な事には、あなたに連れ添った例の女は、患って死にましたと言う。
いやそんなはずがあるものか。
かくかくのわけで、最上へ来て子まで産んでいると言ったので、亭主が女の父親に話すと、父親が娘に会いに、最上へ下った。
最上の家で、父親に会わせようとしても、女房は出てこない。
女房の部屋に入ってみると、父親が京で立てておいた卒塔婆が、そこに立っていた。
卒塔婆の産んだ子供というので、霊童と呼んでいたよしが、見えている。
この本の系統が、『英草紙』になり、『雨月物語』になりしたのだから、上田秋成が「浅茅が宿(雨月物語の内)」の暗示をここに得たのは疑いないであろうが、似ているのは卒塔婆のくだりで、外の部分は、今昔物語にある京の妻を捨てて地方官について下った生侍が、五年目に上京して、妻の死体と寝た話のまる写しなのである。
最上へ訪ねて行った父親は、信太荘司によく似ているではないか。
ちょっと似ていれば、この本からこの本の話が出た、この伝説は、何の本の話が元だと、簡単に決着をつけることが喜ばれる。
しかしそうした結論は、決めたがる人が決めただけの論で、実際の系統は、そう平明にわかるものではない。
妻の父が来て、正体が露れるというような点は、他人の空似と見る方が、まず安全であろう。
が、出雲が全然『因果物語』の写本を見なかったなど言うことは、彼が乱読癖のあった人だったことを見れば、出雲自身だって言えるはずはないと思う。
一番安心な有可能性の考え方は、室町から引き継ぎの、そうした陰惨な空気が、まだ瀰漫していた時代だから、よし『因果物語』からでなくとも、口からも、目からも、豊富に注入せられていたことと見ることだ。
それはそれとして、子供の無邪気な驚愕が、慈母の破滅を導くという形の方が、古くて作意を交えないものに違いない。

三

葛の葉以外の狐は、我々の祖先と毫も交渉はなかったか。
此方から探りを入れて見よう。演劇に関連した作品から見ていくと、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が書いた『女化稲荷月朧夜(おなばけいなりつきのおぼろよ)』という脚本があります。これは牛久沼(うしくぬま)の近く、水戸街道の途中にある「女化原(おなばけはら)」の伝説を題材にしたものですが、物語の組み立て方は『大内鑑(おおうちやかた)』の影響を強く受けすぎています。
その事実は、葛の葉の話が義太夫節の正本としてまとめられてから後に起きた出来事として伝えられています。少なくとも江戸時代の終わりの頃の人々からは、つい最近起きた実話であると信じられていました。
その実録によると、常陸国(ひたちのくに)稲敷郡のある村の農夫・忠七(ちゅうしち)が、江戸からの帰り道に女化原を通った際、一人の女性に出会いました。その女を家に連れ帰り妻にしたところ、男の子二人と女の子一人の子供が生まれました。ある時、添い寝をして寝ている間に、女の尻尾が出てしまいました。子供が騒ぎ出したので、どうすることもできず、一首の歌を残して逃げ去ったといいます。
人間と変わらない生活をしていた者が、最後に抒情的な歌を記念として残していくというのは、私たちの民族心理の表れだなどと、簡単な心理学の説明だけでは片付けられません。人間ではない性質を持つ者までもが、歌を書き残しているのです。

女化原の伝説については、もう一つ「本家争い」をしている話があります。常陸の栗山という場所にいた栗山覚左衛門(蜀山人は大徳と記しています)が、日が暮れて行き場を失った女を泊めてやった後(蜀山人は「偶然行き会った女」としています)、夫婦暮らしをしていると、同じように化けの皮を剥がしてしまい、子供を捨てて逃げ帰ったという話です。これにも歌を書き残したという設定があります。こちらでは「女化原」とは言わず、

「みどり子が 跡を尋ねば、うなばかゞ原に泣く/\臥す と答へよ」

と、原の名前を歌の中に読み込んでいます。蜀山人は、その家の子孫は代々顔が長く口が尖っていると書いています。この話が記録される頃には、地名はすでに「女化原」となっていたはずなのに、歌だけは昔のまま固定されていたようです。
農夫たちの間で口伝えに広まる話の中に、なぜわざわざ短歌を挿入する必要があったのでしょうか。話し手よりも数段上の身分や教養がある者であることを示すためであった、と考えることができます。

馬琴(ばきん)たちの集まりで語られた話をまとめた『兎園小説(とえんしょうせつ)』には、隣国の下総(しもうさ)にも、狐の子供の話が載っています。しかも、自分は正真正銘、狐の子孫であると自称する人の口から聞いた聞き書きです。
江戸下谷長者町(したやちょうじゃまち)に住む万屋義兵衛(よろずやぎへえ)の母・みねは、下総の赤法華村(あかほっけむら)の孫右衛門という人の娘です。その六代前の孫右衛門が、江戸からの帰り道にある原っぱで女に出会い、連れ帰ったところ、その働きぶりが母親に気に入られ、嫁にすることになりました。子供を産んだ後、添い乳をしている時に尻尾を出してしまいました。子供が泣き騒いだので、女はどこかへ逃げて行ってしまいました。

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