愛護若は一人で帥阿闍梨(そちのあじゃり)の住まいを訪ねました。しかし叔父は、甥の若が訪ねてきたことに驚き、その車や馬の数を確認させました。すると、そこには稚児がたった一人立っているだけでした。叔父は「これはきっと、北谷の大天狗が私の修行の力を試そうとして化けてきたのだ」と思い込み、そんな甥はいないと言って、大勢の者に命じて若を打ち据えさせました。
追い出された若は山を下りようとし、三日間も山道に迷った末、三日目の夕暮れ時に志賀の峠へとたどり着きました。
そこで疲れ果てて休んでいると、都へ「万僧公事(まんぞうくじ)」という裁判の用事で向かっていた、粟津の荘の「たはたの介」という兄弟に出会いました。若からこれまでの経緯を聞いた兄弟は、その境遇をひどく哀れに思い、柏の葉に粟の飯を包んで分け与えてくれました。これが、「それより後の世では、志(心)は木の葉に包んで渡すもの」という習わしの由来になったと説明されています。
若はその優しさを喜び、彼らの名字を尋ねると、弟のせんちよが「私たちは『きよすの』という者です」と答えました。お供をしたい気持ちはやまやまでしたが、都へ急ぐ用事があるため、彼らは若と別れて都へ向かいました。
さて、その後のことです。
若は岩場の小松を大切に手に持ち、志賀の峠に植えました。そして、松に向かってこう言い含めました。
「愛護がこの先、世に出て幸せになれるなら、この松よ、枝から枝が広がる『唐崎の千本松』と呼ばれておくれ。もし愛護が空しく命を落とすなら、松も一本、葉も一枚の『志賀唐崎の一つ松』と呼ばれておくれ」
若は涙と共に、穴生の里へと向かいました。
時は卯月の末、垣根には桃の花が満開でしたが、若君はそれを見て、一つだけ大切に愛でました。すると、その家の姥が現れて、霊の宿る杖を振り上げて若を打とうとしました。若は打たれることを恥辱だと感じ、麻畑に隠れましたが、時ならぬ風が吹いて隠れ場所が丸見えになってしまいました。「桃の二口(にこう)がこれを見て、桃を取るだけでも腹が立つというのに、麻まで踏みにじった」と、姥は若を打ち据えました。
若君は「穴生の里よ、桃が実るな。麻を蒔いても苧(お)になるな。嵐よ吹いてしまえ」と言い残しました。それ以来、花は咲いても桃は実らず、麻を蒔いても糸(苧)にはならず、穴生の里は後世まで呪われることになったのです。
それから「きりうが滝」へ来ると、桜の花が散って、愛護の袂(たもと)に入ってきました。見れば、それはまだ蕾のままの花でした。
若は、落ちた花は既に死んだ母上、咲いている花は父上、蕾のまま散るものはこの愛護の身の上であると考え、「恨み言を書き残したい」と、弓手の小指を噛み切り、岩の間に溜まった血で恨み言を書き留めました。
そして、上蔵(かみくら)の滝から身を投げました。
語り伝えよ、松の群れ立ち……。
ついに若は、身を投げました。その時、若は十五歳であったと記されています。
滝のほとりに若の小袖が掛かっているのを山法師たちが見つけ、山の稚児が身投げをしたのだと誤解して、中堂へ上がって太鼓を鳴らし、稚児の人数調べをしました。すると、小袖の紋によって、それが若であることが判明しました。
事実を確認するために二条の家へ使いが送られました。父や叔父たちが集まって調べると、小袖の裾に恨み言が書かれているのが発見され、その最後には「四条河原の細工夫婦の志と、たはたの介兄弟の情の深さを、どうして忘れることができようか。どうか彼らの公事を許してやってほしい」とありました。
それを知った清平は、継母の雲井前を簀巻(すまき)にして川に沈め、月小夜は引き回しの末に、いなせが淵へと投げ込みました。
一同が例の滝へ行ってみると、浮いていたはずの若の骸が沈んで見えなくなっていました。祈りを捧げると、黒雲が北の空から降りてきて、十六丈(約48メートル)もの大蛇が、愛護の死骸を背中に乗せて現れました。清平が池に入ると、阿闍梨も弟子たちも、皆それに続いて身を投げました。穴生の姥も後悔して身を投げ、たはたの介や手じろの猿も、すべてこの世から空しく去ってしまいました。細工の夫婦は、唐崎の松を愛護の形見として、そこから湖水へ入っていきました。
その時、死んだ者は全部で百八人にのぼったといいます。
大僧正がその話を聞き、愛護を「山王権現」として祀りました。四月に申(さる)の日が二回あれば後の申の日に、三回あれば中の申の日に、叡山から三千坊、三井寺から三千坊、下坂本や比叡辻をはじめとする二十一個村の氏子たちが、船祭りを行うようになったということです。
表紙の題簽(だいせん)には、
「ひよしさんわうまつり 天満 あいごの若 からさきのひとつ松のゆらい 八太夫」
とあり、宝永五年正月の、大伝馬町・鱗形屋の出版です。説経節が江戸で大流行し、八太夫座の勢力が強まった後の発刊です。この古浄瑠璃には、伝説の上に多少の脚色と誇張が加えられていることは、心に留めておくべきでしょう。
二
近江輿地誌略巻十七に数え上げられた愛護若伝説の重要な点は、継母の讒言(ざんげん)である。若の出奔(ろ)。革細工の小次郎の情(は)。大道寺田畑之助の粟の飯(に)。帥阿闍梨に会ふ(ほ)。桃及び麻の件(へ)。手白の猿(と)。霧降の滝の身投げ(ち)。小次郎は唐崎、田畑は膳所田畑の社、若は日吉の大宮と現じた(り)。……と言った個所です。
その中の説経節では、(は)の小次郎をただの細工人とだけしており、名前は伝えていません。(に)の大道寺という姓も見当たりません。(ほ)の帥阿闍梨の件は、会いに行ったという部分を省略した言い方と見るべきでしょう。(ち)の霧降とは、すなわち飛龍の滝のことです。(り)の小次郎・田畑之助が神として現れる一件はありません。
もっとも、革細工を単に「細工」と呼んだのは、説経節以前にその呼び方があったのかどうかは疑わしいところです。あるいは、誰もが皆知っている伝説であるために名前を省略したのだと、田畑之助の姓が抜けているのと同じ理由で説明することも不可能ではありません。
しかも『近江輿地誌略』には、小次郎が若に対して男色を迫ったかのように書かれています。『女筆始』では、若に思いを寄せる男を関寺半内とし、その妻が計らって若に事情を訴え、盃をもらい受けることになっています。あるいは説経節がこの点を落としてしまったのかもしれません。
ただし、小次郎という名は、『助六』狂言の影響を受けて、京の小次郎(曾我兄弟の異父名)などの名を採り入れたのではないかと疑われます。それは順序こそ逆ですが、月小夜という名が曾我狂言に入ったのと同じ経路をたどったものと考えられます。(に)の大道寺の姓も、「花館愛護桜」の絵や、それ以降の愛護物語にはたいてい見えているので、説経節のあとに突然できたものとも思えません。(り)の転生説についても、説経節の中で細工夫婦をわざわざ唐崎で死なせていることから、痕跡が全くなかったわけではなく、説経節の手落ちと見るのが妥当でしょう。
つまり、この説経節は、前半は極めて緻密な構想を立てたものの、若の出奔以後は衆人周知の事実を語るため、極端な要約で済ませてしまったようです。
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