初級翻訳・愛護若 第3話

愛護若

穴生の姥のことを述べて「桃の二口(にこう)がこれを見て」などと言ったのも、その間の事情を漏らしてしまったのでしょう。ですから後半はほとんど伝説そのままであり、前半も創作とまでは言えずとも、古浄瑠璃の型を追って書かれたものだと言い切って差し支えないでしょう。

愛護若伝説を『近江輿地誌略』の作者の友人は、「秋の夜の長物語」の翻案と考えていたようですが、志田義秀氏は長物語から糸を引いた、隅田川伝説の一つと捉えられたようです(『郷土研究』一の三)。

長物語とこの民譚とに通じる点は、
・梅若(長物語)と愛護、二人ながら公家の子である点(い)。
・叡山に関係がある点(ろ)。
・桂海律師と細工と(は)。
・叡山なる人に逢うために住家を出ること(に)。
・唐崎の松が主要な背景になっていること(ほ)。
・入水すること(へ)。
・衣掛け(と)。

の数カ所であり、似ていない点もあります。それは、
・肝心な「松のうけひ」と「桃・麻の呪い」が、この伝説にはあって、彼(長物語)には見えないこと(ち)。
・同性の愛が中心問題になっているのと、いないのと(り)。
・継子虐待の有無(ぬ)。
・これは本地物(神仏の由来譚)で、彼は発心物語の一種と言うべきこと(る)。
・彼は山門(延暦寺)・寺門(園城寺)の交渉を背景としているのに、これは三井寺には無関係なこと(を)。

などです。長物語は全く、智証門徒である南谷の慶祚と、西谷の座主良真との関係(『厳神抄』)に脚色を加えたものでしょう。その上、隅田川の梅若と比べると、(い)(へ)(と)並びにさすらひ(わ)の四点は類似しており、細工と人買いとが、幾分同じ傾向の役回りにいることを感じさせるに過ぎません。

この伝説は、鎌倉の初めから室町に至って完成した継子虐待物語――『落窪物語』は疑いもなく鎌倉初期の作――(ぬ)と、室町から江戸の初めまで勢力のあった本地物語(る)との上に、やはり室町に芽生えて江戸に入って多様な発達を遂げた殉死・心中物語(を)と、室町に著しくなった若干の児物語(か)とを加えて形成されているから、この伝説の主要部は徳川初期には既に出来上がっていたものと見てよいでしょう。

ところが「長物語」のような創作に比べると、かえって非常に古い種を蔵しているのも不思議です。それは、大宮権現の由緒と融合したうけひ(ち)と、貴人流離(か)の二つの形式が見えることです。日吉大宮の鎮座次第は、たくさんの書物が繁簡の差こそあれ、皆口を揃えて同じ筋を語っていますが、その中で『厳神抄』の伝えが、愛護民譚の一部に最もよく似ています。

この神は、天智天皇の御代に坂本へ影向(神が姿を現すこと)されましたが、大津の八柳で疲れて、歩くことも難しくなられました。そこで大津西浦の田中恒世の釣り舟に便乗して、志賀唐崎に着かれました。船の中で恒世が自分用の粟の飯を捧げました。唐崎の琴御館宇志丸の家で「我は神明だ」と名乗られましたが、しるしを見せよと言われたので、御船のまま松の梢に上られました(ち)。恒世は田中明神、宇志丸は山末明神となった(『耀天記』『山王利生記』参照)とあるほか、『耀天記』には神の杖が化生した(ち′)という形を伝えています。(ち)と(ち′)は合わさって、「誓い(うけひ)」という一つの形式になっていきます。(か)の、唐崎にたどり着くまでの苦労も、それと同じことですね。
さて、この(ち)と(か)の両方を備えた同じような民話の中で、一番シンプルな形をしているのは、浄見原天皇(天武天皇)の流離譚(さすらいの物語)でしょう。

天皇は吉野を出て宇治の奥、田原の里へ行きました。そこで里人が心を込めてくれた栗や茹で栗を、山のそばの崖に埋めて、「もし私が栄える身であるならば、この栗よ、芽を出せ」と誓いを立てたところ、本当に栗が生えてきました。
朝廷に献上される「田原の栗」は、まさにその名残であり、当時の痕跡が今もかすかに残っているのです。
天皇はそこから志摩へ出て、美濃へと逃れ、墨俣川で不破明神の化身である布洗いの女に助けられました(『宇治拾遺物語』)。

日吉山王の舟祭りでは、膳所に神様が渡御(お出かけ)になると、粟の飯を献上するのが有名な話です。その由来について、この民話では、若に粟飯を与えた田畑之助が粟津の人だったために、それが習わしになったのだとも言われています。
ところが、これは田中明神である恒世の話の変形である上に、この膳所の田中社は「田畑の社」とも呼ばれ、田畑之助を祀ったものだ(『近江輿地誌略』)と言われたり、あるいは天武天皇の流離譚と同じように、粟津の里人が献上したのだという伝承もあったりします。

思うに、山城国の綴喜郡(つづきぐん)の田原まで入り込むと、近江国の栗太郡(くりたぐん)に接していますから、田原の栗の伝説が瀬田川をさかのぼって近江へ入ったものか、あるいは田原(粟津)から志摩へと流れる「さすらいの道筋」の物語として語られていたのか、いずれかでしょう。
田原の栗の話が愛護若の民話と深く関わっていることは、貴人の流離というだけでなく、「誓い」の一条を、若の物語では「松の誓い」と「桃と麻の呪い」の両方に分けているという点だけではありません。物語の主要人物である左衛門や田畑之助の姓が、それぞれ「荒木」「大道寺」であるということも、偶然できた名前とは思われないのです。

天武天皇に栗を献上した人が田畑之助という名であったと仮定しても、「大道寺」という姓の由来は依然として解決しません。
ここで、伊勢新九郎長氏(北条早雲)の家系調べが、一つの光を与えてくれます。
長氏の本貫(本拠地)は、大和とも宇治とも言われています。
その祖先である盛継は、「天性の細工の妙を得ていた。その頃、大坪道禅の弟子として、鞍や鐙(あぶみ)を作る名工の技を相伝した。伊勢守の家は、これよりこの細工を専らとするようになった」のです。長氏が浪人となった後、東国へ下向する際に伴った腹心の者の中に、山中、多田、荒川、佐竹、そして荒木兵庫頭、大道寺太郎という六人の浪士がいました(『北条五代記』)。

しかも荒木と大道寺は、どちらも田原郷の地名なのです。
天武天皇の流離譚が、田原から近江へ広がったことは想像できます。それに加えて、この地名から見ても、宇治の田原を本貫に持つと考えられている後北条氏が、馬具細工の家系であったという事実は、愛護若の民話に登場する細工小次郎が、たとえ琴御館宇志丸の変形であったとしても、あまりに突発的だったこの人物の融和点を示しています。同時に、田原の栗の民話が、愛護若の民話に歩み寄った痕跡を見せているものと考えられるのです。

三

説経節の表面から見ても、山王祭りに「えた(被差別階級の人々)」が関与することを暗示しているようですが、古くは京の河原辺の部落ではなく、瀬田川下流の村が関わっていたのではないでしょうか。
この民話と直接的、あるいは間接的に深い関わりを持っているとも言えるでしょう。
細工が臼の上に若の座を設けたという形は、浅草観音の宮戸川出現の場面に似ていますが、ともかく、祭りに賤民が重要な役目を務めたことを示しているのは間違いありません。

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