初級翻訳・信太妻の話 第9話

信太妻の話

それと同時に、神様との宴(相嘗:あいなめ)に供えられたお供え物が、氏子たちと同じ根っこから分かれたものであり、神様に近い存在であるという考え方があったことは、前にお話しした通りです。
もし、こうした推測をそのまま進めてもいいのなら、植物の話はひとまず置いておいて、動物に関しては一つの大胆な結論にたどり着きます。
『古事記』や『日本書紀』からよく引用される、「猿の声を伊勢の神宮の使いと考えた」とか、「白い猪を胆吹山(いぶきやま)の神の使いと見た」という伝承は、果たして近代の「使い(神の使者)」と同じ内容を持っているかどうか、疑わしいところがあります。
しかし、力が優れたものに使われる精霊が、そのような姿や声を使って、神様の命じた用事をしに来る、という考え方があったことだけは確かです。
「使い」という考え方は、そうした神話から離れても、古くから存在します。
「手代(てしろ)」という言葉も、奈良時代にはすでに見られる言葉で、神様の手そのものとして働く存在のことです。
この仕事が人間に移って、「手代部(てしろべ)」という職業集団までできました。
武家時代には「みさき」と呼ばれたようです。これは、神様の先駆者という意味でしょう。
神様の意志に従う存在には、神の代わりを務める「役霊(やくれい)」としての要素がありますが、その成り立ちには、もう一つ別の側面があります。
「犠牲(ぎせい)」を「いけにえ」と読みますが、それは一部分は当たっていますが、全体としては少し違います。
「贄(にえ)」とは、神様や神様に近い人が食べる、調理された食べ物のことです。
「生け(いけ)」は、生きたまま飼育するという意味です。
いつでも神様のお供え物として使えるように飼っている動物を指します。
同時に、死んだもののような植物性のお供え物と区別するための言葉なのです。
私たちの国の信仰をさかのぼれる限界は、ここ(いけにえの考え方)までです。
しかし、さらにもう一歩踏み込むための材料はあります。
供え物である動物や植物を入れる器は、どうやらその中に神様も入るような「神座(かみくら)」の変化した姿のように見えます。
神様と、そのお祭りのための「生け贄」として飼われている動物と、それを信仰する氏子たち。この三つの対立関係の中で、生け贄になる動物を軽く見てはいけません。
それは、ある時は神様そのものと考えられ、またある時は、神様の使いと考えられてきたからです。
遠慮のない話をすれば、神様の性質がはっきりと分かれていなかった時代の神様は、「犠牲(お供えされる動物)」と一体であったと考えられます。
そして次の時代になると、その神聖な動物は一段階地位を下げられて、神様の「役獣(やくじゅう)」となり、役霊としての考え方の影響を取り込んでいきます。
そうした上で、一方では「使い」として現れ、もう一方では「神様だけの食べ物」というように分かれていくのです。
次に登場するのが、前に述べた「神様の呪いを受けたもの」という考え方です。
稲荷の狐は、南方熊楠(みなかたくまぐす)先生の解説によれば、托枳尼(だきに)という修法の対象である、狼のような獣が曲解されたものだということです。
それは外来のものですが、もともと日本にいた「使い」と思われる存在にも、この種の「役獣」がいるのではないかという暗示になります。
山王(さんのう)の猿は「手白(てじろ)の猿」と呼ばれたようです。
これは「使い」としての意味を正しく示しています。
けれども、山王権現に対する大山咋神(おおやまくいのかみ)の本体がもっとはっきりしない間は、それが生まれつきの「使い」かどうかは、疑う余地があります。
鳩、鴉(からす)、鷺(さぎ)、鼠、狼、鹿、猪、蜈蚣(むかで)、亀、鰻(うなぎ)といった具合に、社々の神の使いがだいたい決まっているのも、犠牲(供え物)となる動物の側から見れば、自然と説明がつくのです。その一方で、土地の神様を「使い」として扱ったり、霊的な力を持つ存在(役霊)と見なしたりする考え方は、仏教が神道を「異教」と見なして支配しようとした時代から現れてきました。

そうなると、後からやってきた仏教や新しい神々に圧倒され、時代の解釈が進む中で、神としての地位は守られず、精霊であると同時に「化け物」として扱われなければならなくなったのです。

以前、坪内逍遙博士が脚本に書かれた「葛城の神(一言主)」のような神様でさえ、かつては猛々しい雄略天皇をさえ脅かしたほどの力を持っていました。それなのに、役行者(えんのぎょうじゃ)という修行者にさんざんな目に遭わされたことになっています。逍遙先生はさらにその地位をぐっと引き下げて、「真夏の夜の夢」に出てくるような、ただの化け物にしてしまいました。

同じく役行者に使役された、大峰山の下に住む「前鬼(ぜんき)・後鬼(ごき)」という鬼たちも、元々は吉野山中の神様だったのではないかと思われます。前鬼・後鬼の子孫は人間として、その名の付く村を今も構えています。

仏教の側で似た例を挙げれば、比叡山に対して「八瀬(やせ)」という村があります。この村の先祖もまた、伝教大師(最澄)が比叡山を開く際、その使いとして働かされた鬼の子孫だと言い伝えられています。

そもそも「おに」という言葉については、いろいろな人がいろいろな説明を試みてきましたが、誰もが納得できる考え方はまだありません。現在勢力を持っている説に、「陰(おん)」や「隠(おん)」といった言葉の音の変化だとする漢音語源説がありますが、これは特にしっくりこない考え方です。

聖徳太子の母君の名を、「神隈(かみくま)」とも「鬼隈(おにくま)」とも伝えています。漢字としての意味は近くても、日本語の本来の読み方(国訓)として、鬼を「かみ」と読んだ例はありません。鬼は「もの」か「おに」と決まっています。そうして見ると、これは二通りの呼び方で名付けられたと考えるほかありません。

この名前は、地名から出たものであることは確かです。その土地は、畏れ多い場所として、半ば固有名詞のように「おにくま」とも「かみくま」とも呼ばれていたのでしょう。二つの言葉の境界が、はっきりしなかった時代があったことを示しているのです。

強いて区切りをつけるならば、「おに」の方は、祀られていない精霊であるように思われる点が多くあります。八瀬の村は、比叡山の地主神とも見なすべき神の子孫だと考えたもので、その先祖を鬼としたのでしょう。この村は延暦寺に対して、寺の奴隷とも言うべき関係を続けていました。

大きな寺院の奴隷たちの集落を「童子村(どうじむら)」と言います。寺の役目に使われる際、村人を「童子」と呼ぶからです。八幡の神宮寺などにも、大きな童子村がありました。開山の法力に屈服して駆使された「鬼」の子孫だと言わない童子村にも、高僧の手によって使いの者のようにされた地主神の末裔だという考え方はあったと思われます。

「童子」が仏法のために力仕事をする奴隷の意味に使われたことから、貴族たちの法会で立ち働く時の名を「堂童子」と呼びました。「童子」という名は、寺の奴隷の頭の形から出た呼び名です。

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