初級翻訳・向日葵の眼 第2話

向日葵の眼

私はなんて馬鹿なんでしょう。同じ毛細管現象でも、これは凹レンズになっちゃった。穴の大きさに比べて、水が少なかったのね」
 もう一度その上へ水を滴らせて、水の膜が真ん中でこんもり盛り上がるように調整してから、一生懸命十銭玉の穴ごしに指輪の文字を覗き込みました。すると、加奈子は思わず喜びの声を上げました。
(皆さんも試してみてね)
「麗子さん、今度ははっきり読めそうよ! 随分と素晴らしい凸レンズになったわ。聞いてちょうだい、最初は『向』の字、次は『日』の字、それから『葵』という字。向日葵と書いてひまわりと読むのよね。その次は『に』、そして『眼を与えよ』。続けて読むと『向日葵に眼を与えよ』となるわ。
 どういう意味かしら? 指輪の彫刻も向日葵だけれど、何か別の意味がありそうね」
「さあ……」
 麗子には、何の手がかりも思いつきません。
「これからすぐに、あなたのお家へ行ってみましょう。そうしたら、また何か気づくことがあるかもしれないわ」
 加奈子に励まされて、麗子も少し元気が戻ったのでしょう。上野から北海道へ旅立つ予定だったことも忘れ、そのまま谷中の家へと引き返しました。
 谷中の松井博士の屋敷は、近所の人から「日廻り御殿(ひまわりごてん)」と呼ばれているほどで、装飾という装飾がすべて向日葵づくめでした。麗子に案内されて中に入った加奈子も、あまりの徹底ぶりにびっくりしてしまいました。
 第一門の扉の飾りからして向日葵、一歩中へ入れば庭の花壇は向日葵と姫向日葵だらけ。
 さらに中へ入ると、壁紙の模様からカーテンの刺繍、欄間の彫刻にいたるまで、すべて向日葵。立派な応接間には、有名な書家が描いた本物の向日葵の絵まで飾ってあります。
 どうしてこんなに向日葵ばかり集めたのか分かりませんが、とにかくこれだけ向日葵があると、どれに「眼」を与えればいいのか、加奈子には見当もつきません。
 家の中をぐるりと一周すると、紺野という助手と、その仲間らしき男たちが、あちこちを叩いたり探し回ったりしながら、二人の少女を険悪な目つきでジロリ、ジロリと眺め回しておりました。
「紺野が怪しい」
 加奈子は直感的にそう思いました。「麗子さん、今晩は私の家へ行って泊まりましょうよ」
「そうさしていただけたら、どんなに嬉しいでしょう」
「後は構わないかしら?」
「ええ、どうせ私がいてもいなくても同じことなんですから――」
 二人はそのまま連れ立って、夕暮れの街を電車へと急ぎました。

三 香椎六郎

 二人の少女から詳しい話を聞いた加奈子の母親は、どんなに驚いたことでしょう。
「まあ、可哀想にね。どんなに悲しかったことでしょう」
 と、まるで我が子のように麗子を慰めます。
 そこへやって来たのは、加奈子の母親の弟で、加奈子には叔父にあたる、探偵好きの若い理学士・香椎六郎でした。
「何だって? 松井博士のお嬢さん――松井博士なら僕が大学にいた頃の先生だよ。それは放っておけない。よしよし、明日朝早くから一緒に行って、すっかり探してあげよう。紺野とかいう男は加奈子さんの言う通り、間違いなく曲者に違いない。まだまだ泣くことはないぞ――」
 そう親切に言われると、麗子はかえって涙が止まりません。
 明くる日の朝早くに出かけた三人は、麗子の案内で「日廻り御殿」へと探検の足を踏み入れました。
 紺野は大勢の仲間を引き連れて、玄関から部屋、また一部屋と片っ端から壊して回っている様子で、時折、凄まじい物音が聞こえてきます。
「悪漢め! 発明の設計図のありかを探しているんだな。今に鼻をあかしてやる」と香椎六郎は微笑みました。
 そして、香椎六郎の一行がいきなり、紺野たちがまだ手をつけていない二階へ上がろうとすると、
「おいおい、お前たちはどこへ行くつもりだ」
 人相の悪い、シャツ一枚の男が前に立ち塞がりました。紺野もその背後に控えています。
「どこへ行こうと勝手だろう。この家の主人の麗子さんが案内しているのが見えないのか」
「…………」
「お前こそ何者だ。誰の許可を得て、そんな乱暴なことをしているんだ」
 香椎六郎はひるまず言い返します。スポーツで鍛え抜いた見事な体格の香椎を前にしては、あまり強そうでもない紺野などは、怖気づいて近寄ることもできません。
「無礼を言うな。松井博士の遺言で、私はこの屋敷の管理をしている紺野左一郎だ。了解も得ずに屋敷の中に入ることは許さんぞ」
「何をッ」
 二人はじっと睨み合いました。
 紺野左一郎の後ろには、その仲間らしい荒くれ男が五、六人。香椎六郎の後ろには、加奈子と麗子が、どうなることかと固唾をのんで見守っています。しかし、二人は睨み合ったままスッと離れ、紺野は玄関の方へ、香椎は客間の方へと引き返しました。
 家の中はどこへ行っても向日葵だらけで、さすがの香椎六郎も面食らいましたが、それでも素人探偵らしく落ち着き払って、客間の名画、卓の上のタバコ入れの象嵌(ぞうがん)、階段の手すりと、一つ一つ丁寧に調べながら、二階、三階へと登っていきます。
 一時間ほどで大方の部屋を見終えましたが、「向日葵の眼」らしいものは一つも見当たりません。
「叔父さん、分かった?」
「いや」
 加奈子の問いにも簡単に答えるだけで、香椎六郎は難しい顔をして、屋上へ抜ける狭い階段の下に立っています。
「麗子さん、この上には何がありますか?」
「屋上庭園です。それから、お父様の小さな実験室もありますが、見るようなものは何もありません」
「とにかく行ってみましょう」
 香椎六郎は先に立って狭い梯子を登り、頑丈な扉を開けて屋上庭園へ出ました。
 入り口には二間四方ほどの小さな実験室があり、天体観測か光学の研究に使ったものらしく、天井の半分ほどは透明なガラス張りになっていました。写真屋のように幕を張り渡して、そこから入ってくる激しい陽光を遮っていますが、中には目ぼしい品は何一つありません。
 卓が一つ、椅子が二、三脚、本棚には本が少し詰まっているだけで、あとは卓の上に大理石へはめ込まれた古い置時計があるだけです。
 実験室の外はかなり広いコンクリートの展望台で、彼方には道灌山やら上野の森やらが、手に取るように見渡せます。
「ああ、いい気持ちだ」
 忙しい中にも、この雄大な眺めに、香椎六郎は思わず胸をくつろがせます。
「叔父さん、これは何かしら?」
 不意に加奈子の声がしました。驚いて指差した方を見ると、寄木細工になっている実験室の真ん中の床の上に、二尺四方ほどの大きな彫刻がはめ込まれており、その中央部分が直径三寸ほど、丸く穴になってポッカリと口を開けています。
 寄木細工が古くなって一見しただけでは分かりませんが、注意して見ると、そのはめ込みの彫刻は大きな向日葵に違いありません。
「向日葵に眼を与えよ――、これだ、これだ!」
 香椎六郎は思わず飛び上がりました。
「叔父さん、眼を与えよって何?」
「それだよ。その『眼』が解れば、謎はわけもなく解けるんだ――待て待て、もっと明るくして見よう」
 壁に垂れている綱を引くと、天井ガラスの下へ張った幕が外れ、真昼の激しい光線が、カッと床の上へ降り注ぎました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました