一枚物ではありませんが、シゲティが弾いた『ヴァイオリン・ソナタ第四番ニ長調』(コロムビアJ五五六六―七)も、少し苦悩を感じさせる演奏ではありますが、曲が美しく、芸術的な香りが高い名盤です。
同じ曲をエネスコが弾いたものもコロムビアから出ています。
新しいところでは、メニューインが弾いた『ソナタ第六番』(ビクターVD八一〇一)などが挙げられるでしょう。
オルガン曲では、ビクターの愛好家協会第四集にデュプレが弾いた『協奏曲第二番変ロ長調』が入っています。これは名品と言ってよいでしょう。ヘンデルのオルガン曲もビクターやポリドールから出ていますが、録音が古かったり、演奏があまり良くなかったりと、わざわざおすすめしたいというレコードは特にありません。
ピアノ曲であれば、同じく愛好家協会の第一集に入っているフィッシャーの「組曲」を推すべきでしょう。
気品あふれる曲で、端正な演奏が聴く人を引きつけます。
**歌**
歌については、「感謝の歌」をバリトンのヒュッシュ(ビクターJD一五八三)と、ソプラノのラシャンスカ(愛好家協会第五集、「アリオーソ」という題名で収録)が吹き込んでいます。
後者の伴奏にはエルマン、フォイアーマン、ゼルキンという豪華なメンバーが名を連ねていますが、歌そのものは前者ヒュッシュの方が上手です。
「ラルゴー」はヘンデルの代名詞のような歌ですが、ポリドールのシュルスヌス(六〇一八三)か、ビクターのジーリ(JD一七一)のものが良いでしょう。
**音楽の父バッハ**
音楽の父なるヨハン・セバスティアン・バッハについて語る時、私や私の家の子供たちは、自然と背筋が伸びる思いがします。
私の部屋には、これまで歴史上の英雄の肖像画を飾ったことは一度もありません。しかし、フランスの若い友人から送られてきたバッハの小さな肖像画だけは、長く書斎に飾っていました。それを見るたびに、溶け込むような親しみと、思わずその前にひざまずきたくなるような敬意を感じたものです。
一枚の肖像画だけではありません。音楽に対する私の好みも、いつでもバッハから始まり、そしてバッハへと帰っていくのです。
私の手元には、時にシューベルト、時にブラームス、時にヘンデルのレコードが置かれますが、いつまでも変わらぬ感激で私の生活を穏やかにし、絶えず心を慰めてくれるのは、一見すると少し堅苦しそうな外見の、バッハの理知的な音楽でした。
「バッハは西洋音楽の祖師である」と言えば、少々大げさに聞こえるかもしれません。
しかしこの言葉は、決して私独自の考えではなく、十九世紀の音楽詩人であり偉大な評論家でもあった、ロバート・シューマンの言葉を訳したものです。
シューマンはこう言いました。「宗教がその祖師に負うところがあるように、音楽はその大半をバッハに負っている」と。
ですが、これでもまだバッハを褒め称え尽くしたとは言えません。
パウル・モルゾックはさらに一歩進めて、「バッハは音楽の旧約聖書である。彼の作品は、その後の音楽家たちが完成させるべき『約束』なのだ」と述べています。
十九世紀の名指揮者ハンス・フォン・ビューローは、バッハの『平均律クラヴィーア曲集(四十八の前奏曲と遁走曲)』に対して、「もし世界のあらゆる音楽が滅びてしまったとしても、この四十八曲さえあれば、私たちが今持っている音楽を容易に再現することができる」とまで言い切りました。
バッハを「音楽の父」と呼ぶ言葉が、決して単なる形容詞ではないことを知るべきです。
もしバッハがいなかったら、ベートーヴェンもブラームスも生まれることはなかったでしょうし、おそらく西洋音楽は、今日のような姿では存在していなかったはずです。
バッハの偉大さは、その「才能」という点だけでも、あらゆる天才たちの上位に置かれるべきものです。
しかし、バッハの真の尊さは、単なる音楽的な才能や、近代音楽の建設者としての功績だけにとどまりません。
バッハは、音楽を通じて最も誠実に神に仕え、名声や利益を求めることなく、その偉大な芸術を完成させた人でした。
バッハほど良き父親は少なく、彼ほど良き夫もまた少なかったことでしょう。
人間としてのバッハの良さ、高潔さ、そしてその尊さに、二百数十年という時を隔てた今、私は心からの敬慕を捧げずにはいられません。
**良き血統**
バッハを生んだ家系が「良き血統」として、優生学上の有名な例であることは、その分野に興味と知識を持つ人々には広く知られています。
偉人や天才は、一代で突然生まれるわけではありません。何代、何十代にもわたる注意深い生活、修養、そして良き結婚の積み重ねの賜物であることは、「バッハの家系」を見ればすぐに分かります(バッハの家系図は、遺伝学や優生学、進化論の専門書には必ず掲載されています)。
遠い先祖であるファイト・バッハは、ハンガリーでパン屋を営んでいましたが、十六世紀の中頃、ルーテル派の信仰を守るために家財をすべて売り払い、ハンガリーを去らなければならなかったと伝えられています。
そのファイトから数えて七代目の孫にあたるヨハン・セバスティアン・バッハが、生涯をルーテル派の信仰に捧げ、清らかな貧しさに甘んじながら敬虔な生活を続けた由来は、きわめて深いものがあると言わざるを得ません。
ヨハン・セバスティアン・バッハは、一六八五年三月二十一日、チューリンゲンのアイゼナッハに、音楽を愛する父親の子として、想像し得る限り最高の良き中流家庭に生まれました。
ルーテル派の敬虔な信仰、アイゼナッハの美しい自然、そして父親や兄からの音楽教育は、バッハの晩年の偉大な才能と、温厚で柔らかな人柄を育んでいったのです。
十歳の時に父を亡くしたヨハン・セバスティアンは、オールドルフのオルガン奏者であった兄クリストフの元に引き取られ、そこでクラヴィーアの練習を教わりました。
少年バッハの限りなく高い音楽的向上心は、決められた課題だけではもちろん満足できるはずもありませんでした。十四歳年上の兄クリストフの部屋には、たくさんの楽譜がしまわれていました。厳格な兄から楽譜を借りるのが難しいと知っていた少年バッハは、夜になるたびこっそりと書斎に忍び込みました。まだ小さな手を使って、本棚の格子の隙間から楽譜を引き出し、月の光を頼りにして、半年もの時間をかけて兄が持っていた作曲集をすべて書き写してしまったのです。
後年、バッハが両目の視力を失ったのは、この少年時代の無茶な目の使い方が原因だったと言われるほどです。
兄のクリストフは、末っ子のこの出過ぎた向上心を許しませんでした。半年かけて苦労して書き上げた楽譜を見つけると、それを取り上げ、火の中に投げ込んで燃やしてしまったのです。
それでも、この口うるさい兄のもとで過ごした五年間のオールドルフでの生活は、バッハの作曲の才能が芽生えるための良い温床となりました。
十五歳になると、少年バッハは仕事を得るために、リュウネブルクにある聖ミハエリス教会の合唱隊に入らなければなりませんでした。
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