初級翻訳・楽聖物語 第6話

楽聖物語

彼の美しいボーイ・ソプラノの歌声は、二年間という安定した生活を約束してくれただけでなく、教会付属学校の図書室にはドイツ、オランダ、イタリアの名曲の楽譜がたくさん揃っていました。それが彼の尽きることのない知識欲を満たしてくれたのですから、なんと幸せなことでしょう。
しかし、それ以上に少年バッハを夢中にさせたのは、オルガンという楽器に触れるチャンスでした。
バッハより二十五歳年上でしたが、有名なゲオルク・ベームが聖ヨハネ教会のオルガン奏者をしており、二人は年齢の差を超えて良い友人となりました。さらにベームの師匠であり、オランダの名オルガン奏者であるヤン・アダム・ラインケンが、三十マイルほど離れたハンブルクに住んでいました。少年バッハは、許される限り、退屈で長い旅をしてでも、この人の演奏を聴きに出かけたのです。
一度はこんなこともありました。
十五歳になったばかりのバッハが、ラインケンのオルガンを聴きたい一心で、何の準備もしないままリュウネブルクを飛び出しました。しかし、途中で激しい空腹に襲われ、もう一歩も動けなくなってしまったのです。
ラインケンのオルガンの魅力がどんなに少年バッハを勇気づけても、お金を一文も持たずにハンブルクへ行くことは、もはや諦めるしかありませんでした。
バッハは疲労と失望で泣きたいような気持ちになり、ある家の壁にもたれかかっていました。
するとどこからか、肉を焼く美味しそうな匂いが漂ってきました。ふと顔を上げると、そこは宿屋の壁で、窓の中では豪華なご馳走が並び、温かい火のそばで人々が楽しそうに話をしていました。
その時、窓から何かが投げられました。
バッハの頭をかすめて地面に落ちたものを見ると、それは美味しそうに焼かれた一匹の鰯でした。そして、その鰯の口には、キラリと光る金貨が一枚くわえさせられていたのです。
誰かが、失望しきった少年バッハの姿を哀れに思って、そんな粋な計らいをしたのでしょう。
バッハはその金貨を手にハンブルクへ向かい、憧れのラインケンの演奏を聴くことができたのは言うまでもありません。

**猛精進**

十八歳の秋、ザンゲルハウゼンの教会のオルガン奏者の試験を抜群の成績で通過しましたが、あまりに若すぎたために採用されませんでした。
翌年、ワイマールの楽団に加わり、その年の秋には長かった見習い生活を終えて、アルンシュタットの教会でオルガン奏者としての席を得ることができました。
若きバッハの猛烈な努力は、その頃からさらに加速しました。
彼は練習に打ち込むあまり、教会の関係者を困らせてばかりいました。彼の演奏はしばしば伝統を飛び越えて自由な発想を広げ、美しい即興演奏で教会の長老たちを驚かせたのです。
一七〇七年にはついにそこを離れてミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガン奏者となり、翌年二十三歳のバッハは、従妹にあたるマリア・バルバラと結婚しました。
結婚式に出席したのは、彼と彼女の二人だけでした。そして、彼自身が自分たちの祝福のためにオルガンを演奏したのです。
この新しい家庭生活はとても幸せなものでしたが、バッハを取り巻く周囲の環境は、あまり良いものではありませんでした。
清教徒とルーテル派の信仰の争いがバッハに安らぎを与えず、さらに彼が抱いていた「教会音楽をこう変えたい」という意見が、周囲とぶつかることも少なくありませんでした。
バッハはついにワイマールへと移りました。
その後、ウィルヘルム・エルンスト公爵がバッハの教会音楽改革の計画を支持してくれたおかげで、バッハはそこに腰を据え、古今未曾有の対位法という形式を生み出す天才的な才能を存分に伸ばすことができたのです。
彼の内側には、誰にも負けない生命の光が宿っていました。
彼の宝物のようなオルガン曲の数々は、ウィルヘルム公の少し変わった礼拝堂にある、音の調子が悪いオルガンで初演されました。
彼の名声は、やがてヘンデルと並び称されるほど有名になりました。
バッハがドレスデンを訪れた際、フランスの名オルガン奏者マルシャンに勝負を挑まれたのは、ちょうどこの頃のことでした。バッハはもちろん、逃げ腰の相手に背中を見せるようなことはしませんでした。しかし、挑戦者であるはずのマルシャンの方が、いざ対決という土壇場になって怖気づき、どこかへ姿を隠してしまったのです。

一七一七年、三十一歳になったバッハの名声は、ドイツ中に轟き渡りました。
レオポルド大公はバッハを特別に抜擢し、宮廷礼拝堂の楽長に任命しました。バッハは妻と大勢の子供たちを連れて、ケエテンの地へと旅立ちました。
このケエテンでの生活をバッハの長い生涯から見渡すと、まるで五年間の「寄り道」であったような気がしてなりません。
というのも、そこにはバッハが情熱を注ぐべきオルガンがなかったからです。オルガンこそがバッハの魂そのものだった彼にとって、それは大きな失望だったに違いありません。
その代わり、彼が率いた楽団は腕利きの音楽家ばかりが揃っていました。フランスやイタリアの流行音楽にも詳しかったバッハにとって、この環境は、あふれんばかりの創作意欲を注ぎ込み、美しい組曲や序曲、その他の器楽曲を作り出す絶好の機会となったのです。
バッハの教会音楽ではない美しい器楽曲の数々が、このケエテン時代に生まれたことは特筆すべきことです。そのおかげでバッハの作品はぐっと多彩になり、現代の私たち音楽ファンも多くの恩恵を受けているのですから。
この地で彼は最愛の妻バルバラを亡くし、その後、アンナ・マグダレーナ・ウィルケンと再婚しました。
また、この時期に彼は、歴史に名を残す傑作「ブランデンブルク協奏曲」の六曲を書き上げました。
しかし、大公の関心が音楽から女性へと移っていくのを見て、さらに子供たちにきちんとしたルーテル派の教育を受けさせる環境がないことを悟ったバッハは、一七二三年、ケエテンを離れてライプチッヒへと向かいました。そして、聖トーマス学校の合唱長という重要な役割を引き受けることになったのです。
三十八歳のバッハにとって、新しい世界が大きく開けていきました。
バッハの生涯の中で、ライプチッヒでの二十七年間は、最も意味深く、最も光り輝く時代でした。
彼の天才的な才能はますます円熟味を増し、信仰心は火のように激しく燃え上がりました。
聖トーマス学校の合唱長として、二つの教会の楽長を兼ねたバッハは、ここで初めて、自分自身の真の姿を余すところなく発揮することができたのです。

**神聖なる芸術**

バッハが就任した聖トーマス学校は、十三世紀から続く非常に伝統ある学校でした。そこの生徒たちは、食事と教育を支給される代わりに、四つの市立教会の聖歌隊として歌う義務がありました。
そのうちの二つ、聖トーマス教会と聖ニコラス教会のために、バッハは自ら作曲したカンタータ(交声曲)やオラトリオ(聖譚曲)、パッション(受難曲)などを演奏させなければなりませんでした。
学校には、もちろん歴代の合唱長が作ってきた楽譜がたくさん保管されていましたが、バッハは新しいスタイルの音楽を届けるため、さらに膨大な数の曲を自分で作らなければなりませんでした。

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