初級翻訳・楽聖物語 第52話

楽聖物語

二十歳になる頃には、もう若いヴァイオリニストのレメニーと組んで、ハンガリーへと演奏旅行に出かけるほどになっていました。
ある田舎の小さな町でコンサートを開いた時のことです。
開演直前、舞台のピアノが普通の音の高さ(ピッチ)よりも半音低く調律されていることを知って、レメニーは顔を真っ青にしました。
しかし、開演時間は迫っており、どうすることもできません。ブラームスは平然とした顔でそのピアノに向かうと、半音高く移調しながら、ベートーヴェンの名曲「クロイツェル・ソナタ」をすべて暗譜で弾きこなしてしまいました。
その演奏を聴いて誰よりも驚いたのは、偶然会場に居合わせていた大ヴァイオリニストのヨアヒムでした。
二人はすぐに意気投合し、その友情は一生変わることのない深いものとなりました。
ブラームスという素晴らしい才能を見出したヨアヒムは、早速この優秀な青年音楽家を、当時ワイマールという町で一大音楽王国を築き上げ、尊敬を集めていた大ピアニストであり大作曲家でもあるリストに紹介しました。
ブラームスを迎えたリストが、持ち前の心の広さと親切心で、いかに彼を温かくもてなしたかは言うまでもありません。
リストはまず自らピアノの前に座ると、まだ無名だった青年ブラームスが書いた「スケルツォ」の楽譜を、汚れて読みにくいにもかかわらず、超人的な理解力でさらりと弾きこなし、さらにブラームスの第二ソナタに対しても熱心に興味を示してくれたのです。
「野人」のように素朴なブラームスは、この大先輩であり、音楽界の大御所でもあったリストの歓待ぶりに、ただただ驚き、呆気にとられるばかりでした。
しかし、リストの豪華な殿堂の中に流れる空気は、どこか贅沢で生温かく、虚飾とへつらいに満ちていました。
やがてリストが客や弟子たちに囲まれ、自分の作品である「ロ短調のソナタ」について長々と説明を始めた頃のことです。ブラームスは、生まれて初めて座ったようなふかふかの安楽椅子の座り心地の良さに誘われ、ついウトウトと居眠りを始めてしまったのです。
それ以来、リストとブラームスの道が分かれてしまったことは言うまでもありません。
ただ、このエピソードをもって、決してリストを笑ったり、軽く見たりしてはいけません。
リストは寛大で面倒見が良く、立派な人物であったに違いありませんが、野人ブラームスとは住む世界が違い、二人は結局のところ「水と油」だったというだけのことなのです。

シューマンと彼

続いてブラームスは、同じくヨアヒムの紹介で、ロバート・シューマンとその妻クララの家庭を訪ねました。
当時シューマンは宿命的な脳の病に苦しんでいましたが、瞳が澄んでいて髪の美しい二十歳の青年ブラームスを迎えると、まるで実の弟にめぐり逢ったかのように喜び、有名な才媛である妻のクララもまた、夫と共にその喜びを分かち合いました。
シューマンはブラームスの作品を見てすっかり夢中になり、自分が編集長を務める雑誌『新しき道』でブラームスの登場を世間に報告し、最大級の褒め言葉を贈りました。
青年ブラームスはこれによって一躍、天下に名の知れ渡る音楽家となりましたが、その代わり一部の人々からは反感を買うようになり、嫉妬の目で見られるようになったのも事実です。
ブラームスの人生、とりわけその音楽に対するシューマン夫妻の影響は非常に大きなものでした。
ブラームスが流行に媚びず、新奇なものや薄っぺらなものを厳しく拒絶し、一生を通して地味で冴えない――しかし最も芸術的な音楽を作り通した非妥協的な態度は、彼本来の性格によるものですが、その一部は理想家シューマンと聡明なクララ夫人の感化によるものだと言っても、決して間違いではないでしょう。
シューマンがロマン派音楽の闘士としてあれだけの仕事を成し遂げたのは、クララの激励があったからこそであるのと同様に、シューマンの死後、彼よりもずっと若いブラームスに対して、才媛クララの影響がなかったとは決して言えないのです。
クララ夫人のピアノの腕前と、その聡明さについては、残された文献を通して、私たちは今でもかなり鮮明に想像することができます。
一八五四年、脳の病に苦しんでいたシューマンはライン川に身を投げ、危ういところで救い出されました。
その後ブラームスは、シューマンの恩義に報いるために彼の作品や図書の整理を行い、さらにはシューマンの療養費を稼ぐために、出産直後のクララを助けて遠方への演奏旅行に出かけるなどしました。
一八五六年七月にシューマンが亡くなった後も、ブラームスはクララとシューマンの遺された子供たちにとって最も頼りになる相談相手となり、生涯変わることのない友人として、陰に陽に支え続けたのです。
シューマンがブラームスに与えた影響は決して小さくありませんが、わずか二、三年の付き合いの恩に報いるために、その後四十年の長きにわたって変わらぬ好意を尽くし続けたブラームスの誠実さは、称賛されるべきものです。
シューマンの死後、ブラームスはいよいよ自分自身の道を歩み始めました。
古典の形式と精神を深く掘り下げ、無駄な誇張や飾りを捨て去り、そこに新しい美を見出そうとしたのです。
最初の「ピアノ協奏曲」は、その信念を貫くために「作品15」として発表されましたが、当時の聴衆はもちろん、専門の批評家たちさえもこれを理解することができませんでした。
「無味乾燥だ」「不愉快な響きだ」といった無責任な批判で片づけられ、それから三十年後にダルベアというピアニストによって演奏され、ようやく最初の熱烈な喝采を浴びるまで、その作品は悪口と嘲笑と無関心の中に埋もれていたのです。
それに続くいくつかの室内楽や美しい歌曲の数々も、友人たちに励まされて何とか世に送り出されましたが、当時は誰も見向きもしませんでした。
ブラームスという音楽家の真価を理解するために、ヨーロッパの楽壇は、正直なところ三十年、あるいは五十年の歳月を必要としたのでした。孤高の姿

ブラームスが音楽の都ウィーンを訪れ、そこに住み着こうと決めたのは一八六二年のことでした。モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトといった偉大な音楽家たちが、その輝かしい一生を捧げたウィーンという町の魅力に、ブラームスも強く引き寄せられたのでしょう。

ウィーンでのブラームスの生活は、ピアニストとしても作曲家としても、とにかく成功といえるものでした。唱歌学校の合唱団長として働いた二年間は、自由気ままな性格のブラームスにとっては、珍しく落ち着いた仕事だったと言っていいでしょう。その後、数々の器楽曲や、名曲「永遠の愛」や「五月の夜」を含む歌曲集を世に送り出し、一八六六年、あの有名な傑作「ドイツ・レクイエム(ドイツ鎮魂曲)」が完成しました。これは、かつての師であり友人でもあったシューマンの死を偲び、さらに新しく失った母の死を悼んで、ブラームスが魂を込めて作り上げた作品です。ドイツ語で書かれた最初のレクイエムであり、最も芸術的な宗教音楽の一つとして広く知られています。

しかし、楽友協会で行われた初演は、決して成功とは言えませんでした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました