初級翻訳・楽聖物語 第3話

楽聖物語

二度も死にかけるような病気に倒れ、新聞記者や三流の文士、音楽批評家、そしてわがままな貴婦人たちを相手に、二十年以上もの間、戦い続けなければなりませんでした。
彼にとって真の天職であり、永遠の命が吹き込まれた芸術「聖譚曲(オラトリオ)」にたどり着くまでのヘンデルの戦いは、文字通り死に物狂いだったのです。

ヘンデルの最初の敵として立ちはだかったのは、イタリア人のボノンチーニでした。
彼はヘンデルよりも早く才能を現し、流行を追いかけるのがうまく、ヘンデルよりも器用でした。
「熊や雉(きじ)、あるいは名人同士の勝負が大好きなイギリス人たち」は、この二人の必死の対決に興味津々で、夢中になっていました。
挑戦に対して堂々と応じたヘンデルは見事に勝利を収めることができましたが、その次に待ち構えていたオペラのスター女優たちの悪意ある争いには、さすがのヘンデルも手を焼いてしまいました。
その二人のスターは、ファウスティーナとクッツォーニという女優たちでした。
二人は二匹の猛獣のように争い続け、ウェールズ王女が見に来ている舞台の上で、血だらけになってつかみ合いを始めてしまったほどです。
この二匹の猛獣は、とことん疲れさせるほかに仲裁する方法はありませんでした。
指揮者のヘンデルは、その騒ぎを早く終わらせるために、わざと激しくティンパニを叩かせたほどです。
あるときは、女優のクッツォーニがどうしてもヘンデルの書いたアリアを歌うことを拒んだことがありました。
するとヘンデルは、いきなりそのスターの胴を抱え上げると、窓から外の通りへ放り出そうとしたのです。
「あんたは女悪魔だ。それはよくわかっているが、この俺がその悪魔の王だってことを見せてやろう」と言って、ヘンデルは強靭な頬に皮肉な笑みを浮かべました。
続いてハッセとポルポラという音楽家たちが、ヘンデルの敵として立ちはだかりました。
苦難は次から次へと続きました。
一番深刻にヘンデルを悩ませたのは経済的な破綻であり、さらに追い打ちをかけるように、その巨大な体を病床に縛り付ける重い病気でした。
しかしヘンデルはそんな中でも名作『アルキーナ』を作り上げ、たった十日間で『アレキサンドルの祭』を書き上げました。
一七三七年の春、五十二歳のヘンデルはついに中風で倒れてしまいました。
右半身が動かなくなり、頭の働きさえも冒されてしまったのです。しかも災難はそれだけではありませんでした。同時に彼の劇場までが破産してしまったのです。
絶望のどん底に突き落とされながらも、温泉地へ送られたヘンデルは、なんと奇跡的な回復を見せ、秋の終わりには再び戦いの場へと戻ってきたのです。
しかし、災難はそれっきりヘンデルを見捨てたわけではありませんでした。
借金取りは毎日彼を追い回し、牢獄の扉がすぐ背後まで迫っているような状況も一度や二度ではありませんでした。

「救世主」の感激

ヘンデルの創作力は、まことに超人的でした。
一つのオペラを二週間で書き上げることは珍しくなく、時には二つのオペラを同時に書くことさえありました。
当時の音楽の書き方では彼のスピードに追いつけず、一種の速記術が必要なほどでした。
「彼は呼吸をするように創作した」とさえ伝えられています。
この驚くべき天才の奔流は、五十一曲もの歌劇(オペラ)の創作へとつながりました。
これこそ人間業を超えた仕事です。
しかし、五十三歳になったヘンデルは、当時のイタリア風オペラのあまりの堕落ぶりに対して、真剣に向き合わなければならない時に直面していました。
その頃のオペラのひどさは、舞台に馬や鳥、さらにはライオンまでも登場させたというサーカスのような演出の一面だけでも、十分に想像できることでしょう。五十三歳になったヘンデルが、年をとってもなお燃えさかる情熱をすべて注ぎ込み、聖譚曲(オラトリオ)『サウル』を書いたことは、まさに天からのひらめきによる「新しい道の発見」と呼ぶべきものでした。
それまで聖譚曲といえば、教会の中で聖書の物語を音楽にするもので、背景や衣装も使わず、地味で少し堅苦しい雰囲気が漂うものでした。それをヘンデルは、宗教関係者の反対を押し切って劇場へと持ち込みました。背景や衣装を整え、イタリア・オペラで培った美しいメロディと、ドイツ音楽のしっかりとした技術を組み合わせ、壮大で華やかな作品へと作り上げたのです。これには当時の人々も、驚きを隠せませんでした。
ヘンデルの聖譚曲の素晴らしさが、すぐには人々に受け入れられなかったのは残念な事実です。しかし「時間」という最高の味方がヘンデルを助け、最後には彼が勝利の栄冠を手にすることになりました。
五十五歳のヘンデルは、続いて器楽曲の傑作である『大協奏曲』を十二曲書き上げました。これらは、彼の人格や人間への深い愛がぎっしりと詰め込まれた作品です。
しかし、世間は決してヘンデルに優しいわけではありませんでした。
彼を邪魔しようとする人々の嫌がらせはますますひどくなりました。街の悪ガキを雇って彼の演奏会のポスターを剥がさせたり、ヘンデルのコンサートがある日には、わざと別のイタリア・オペラへ行くことが上流階級の流行にさえなったのです。
貴婦人たちは、ヘンデルのコンサートがある夜に限ってパーティーを開いたり、騒ぎ立てたりしました。
ヘンデルは、誰もいない空っぽの会場を眺めて、「これだけ人が少ないと、かえって自分の音楽が立派に聴こえていいな」と、負け惜しみを言わなければなりませんでした。
ヘンデルは何度も破産しそうになり、ついにイギリスに愛想を尽かしてしまいました。
三十年も住み慣れたイギリスを去る決心をし、最後のコンサートを開いたのは一七四一年の春のことでした。
このとき、アイルランドの総督が、永久にイギリスを去ろうとするヘンデルを惜しんで、ダブリンに招き、しばらくコンサートを指揮させたのです。
そこでヘンデルは、友人のジュネンが選んでくれた聖書の言葉に曲をつけ、歴史に残る大傑作、聖譚曲『救世主(メサイア)』を作曲しました。
『救世主』がどんなにすごいものか、ここで詳しく書くにはページが足りませんが、とにかくこれは聖書を読み解く最高の音楽であり、人類が持つ宗教音楽の中で最も素晴らしいものであることは間違いありません。
聴衆の心は、感動の涙で洗い流されたようでした。会場の熱狂ぶりは、まるで嵐のようでした。
演奏が終わって廊下に出たヘンデルに、ある貴族が近づいてきて肩を叩き、「非常に面白かったよ」と言いました。
するとヘンデルはカッとなって、「それは残念でした。私は皆さんに面白がってもらおうと思ってこの曲を書いたのではありません。少しでも人の心を高めたいと思って書いたのです」と言い返しました。彼の芸術に対する、どこまでも大きく深い志が伝わってくるエピソードです。

夜が昼に続くように

『救世主』の成功は圧倒的でした。
作られた当時の感動を二百年後の現代までいきいきと伝える音楽は少ないものですが、ヘンデルの『救世主』が呼び起こす感動は、年が経つごとにどんどん熱を増していくばかりです。
この壮大な傑作を、ヘンデルはわずか二十四日間で書き上げました。
それだけではありません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました