パリの音楽家たちも、音楽好きの人たちも、そして普通の聴衆たちも、ショパンの音楽の本当のすばらしさを理解することはできませんでした。
しだいに生活が苦しくなると、ショパンはアメリカへ渡ることも考えましたが、幸運なことにラジヴィール公に認められ、その紹介のおかげで、若きショパンは一気に音楽界の人気者へと駆け上がることになったのです。
優しきショパン
ショパンが人気の絶頂へと押し上げられたもう一つの理由は、パリの人々がポーランド人に対して抱いていた同情心でした。
ロシア軍に対する反感の空気は、無名だった一人の若きピアニストを、地の底から空の高さまで一気に持ち上げたのです。
三つ目の理由は、ショパンの性格や見た目が、パリの人々の好みにぴったりだったことでした。
ショパンのおしゃれな服装は有名で、頭の先からつま先まで、隅々まで気配りされた端麗な姿は、パリの上流社会の人々にとても喜ばれました。
「ショパンの様子は、彼の音楽そのものだ」と言われたのは、その上品な振る舞いや、繊細で清らかな雰囲気を指してのことです。ある人は、ショパンを「細い茎の上に、バランスよく青磁色の花を咲かせた昼顔」に例えました。
その花は、ちょっと触れただけでも傷ついて涙を流してしまいそうに、か弱く見えました。
髪は絹のように柔らかく、瞳は活発に輝き、手足は細く、背はあまり高くありませんでした。鼻だけが特徴的で、少し湾曲した線を描いていました。
ショパンの笑いには何とも言えない魅力があり、彼の善良な性格がよく表れていました。
声は音楽のように美しく、時々女の子のように恥ずかしがったり、ためらったりすることもありました。
そんなショパンが、パリの人々の人気者となり、一流の仲間入りをしたのも不思議ではありません。
二十三歳のショパンは、もう誰にも負けない存在になっていました。
人気者ゆえに敵を作ってしまうこともありましたが、一方で、まだ世に知られていない芸術家たちは、ショパンのために争うようにして自分の作品を捧げるようになっていました。
この時期、メンデルスゾーンと新しく親交を深め、ショパンにとって生涯の大親友とも言えるシューマンに出会い、「諸君、帽子を脱ぎたまえ、天才ですぞ」という有名な言葉を贈られたりもしました。
しかし肝心のショパンは、その頃からだんだんと、人前での演奏会から遠ざかっていきました。
内気な彼は、たくさんの聴衆に見つめられると緊張してしまい、自由に想像力を広げることができなくなって、自分は演奏家に向いていないのではないかと悩み始めていたのです。
その頃、ショパンはリストに対して、「大勢の観客が僕を怖がらせる。彼らの息で窒息してしまいそうだ。見知らぬ人々の海に囲まれて、僕は麻痺してしまい、何も聞こえなくなってしまうんだ」と話したと伝えられています。
ショパンが人前での演奏をあきらめて、作曲に没頭してくれたことは、後の時代の私たちにとって、どれほどありがたいことか分かりません。
女流作家サンド
ショパンの人生の記録の中で、最も重要なページは、女流小説家ジョルジュ・サンドとの出会いです。
サンドは、当時のフランス文壇で異彩を放っていた女性作家で、ショパンよりも年上でした。性格も、体つきも、趣味も、すべてがショパンとは正反対の存在でしたが、思いがけない運命のいたずらが、天才ショパンと彼女を結びつけ、ショパンの晩年に大きな影響を与えることになったのです。
サンドは結婚の経験があり、前の夫との間に子供もいました。
今日残されている肖像画を見ると、とても華やかな美人と言ってよい女性ですが、実際には決して美しいとは言えず、背が低くて肌は少し黒っぽく、鼻の形が悪く、口元も粗野だったとさえ伝えられています。
しかし、女性としての魅力は並外れたものがありました。最初はサンドのことを嫌っていたはずのショパンが、だんだんと彼女の不思議な力に引き寄せられ、どうしようもない気持ちになっていったことは、簡単に想像できることなのです。ショパンとサンドが初めて出会ったのは、リストが開いたお茶会でのことだと言われています。ショパンがピアノで即興演奏を披露したとき、ピアノに寄りかかって熱心に聴き入る、大きく燃えるような瞳の女性がそこにいた、とも伝えられています。
ともあれ、正反対の性格を持つ二人は、すぐに離れられない仲となりました。1838年から39年にかけて、肺を患ったショパンが療養のためにスペインのマジョルカ島へ向かったとき、サンドは付き添ってその看護を引き受け、島の人々からの冷たい仕打ちに耐えながら、献身的にショパンの世話に没頭しました。
しかし、島の暮らしは決して楽しいものではなく、ショパンの体調は良くなるどころか、かえって悪化する一方でした。
ある日のこと、サンドは女中と共にパルマの町へ買い物に出かけましたが、そこで激しい風雨に見舞われてしまいました。
洪水で道は沈み、サンドは靴を失い、乗って帰るはずの馬車さえ見つかりません。幾度も命の危険を感じながら、ようやく家へたどり着いたのは、もう夜中のことでした。
その間、一人で留守番をしていた病身のショパンは、恐ろしい幻想に悩まされていました。サンドが溺れ死んでしまい、その遺体の上へ執拗に水滴が落ち続けているという光景が頭から離れず、目に涙を浮かべながら、真っ青な顔でピアノを弾き続けていたのです。
そのときショパンを襲った不安と恐怖が、のちに傑作「雨だれの前奏曲」として結実したと言われています。
ショパンの想像力をかき立てた、あのしつこい水滴の音の正体は、古びた家の天井から漏れ落ちる雨の音だったのです。
ショパンとサンドの恋も、それほど長くは続きませんでした。
正直で一途なショパンが正式な結婚を望んだのに対し、年上で賢く世慣れたサンドがそれを受け入れなかったため、二人はどうしても避けられない別れを迎えることになりました。
そのときのショパンの苦しみは、見ていられないほど無残なものでした。
のちにサンドが二度もショパンの住まいを訪ねましたが、ショパンは一言も口をきこうとしませんでした。死の間際まで、本当はサンドの腕の中で最期を迎えたいと願っていたにもかかわらず、かたくなに面会を拒み続けたほど、ショパンは頑固なまでの意地っ張りだったのです。
サンドの態度はもちろん非難されるべきであり、彼女の冷淡さがショパンの死を早めたとも言われています。しかしその一方で、リストのように「あの病弱な体でショパンが39歳まで生きられたのは、サンドの看護と気配りがあったからこそだ」と評する人もいます。
淋しき死
サンドと完全に別れてからのショパンの生活は、本当に見ていられないほど惨めなものでした。
健康は次第に衰え、1848年にフランスで革命が起きたのを避けてイギリスへ逃れたときには、あまりに衰弱しきっていて、生きているのが不思議なほどでした。
その頃の心境を、ショパンは「私は長いこと、本当の喜びを味わっていない。私はもう、何も感じない」と書き残しています。
イギリスでの演奏会も悲惨なものでした。
ステージに現れる姿は背中が折れそうに曲がり、絶えず咳き込んでいました。
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