初級翻訳・楽聖物語 第2話

楽聖物語

ヘンデルの命は本当に髪の毛一重のところで助かり、次の瞬間、二人は怒りも忘れてお互いにぎゅっと抱き合ったのです。
争いの原因も、お互いへの憎しみも、死のきわどい体験を通り越したことで、春の日の霜のようにあっさりと消えてなくなりました。

その次にヘンデルとの間に大きな溝を作ったのは、ハンブルクのオペラの世界で中心人物だったカイゼルでした。
カイゼルが人気を落としていじわるになったせいで、ハンブルクのオペラ全体がめちゃめちゃになってしまいました。
一七〇六年、二十一歳のヘンデルは、ハンブルクの様子にすっかりがっかりして、イタリアへと旅立ちました。「太陽に向かってにっこり微笑む、音楽の国」を求めて出て行ったのです。

フローレンスからローマへ、そしてローマからヴェニスへと、若いヘンデルの音楽の旅はしばらくの間続いていきました。
「ヘンデルは、イタリアの音楽にすっかり夢中になってしまったわけではなかった」と、有名な音楽の先生であるロマン・ローランは言っています。
ドイツ人で生まれたヘンデルには、ドイツ人ならではの「絶対に負けないぞ」という強い気持ちや、プライドがありました。
だけど、イタリアの音楽の世界から、ヘンデルが学び取ったものは決して少なくありませんでした。
彼のたくさんの豪華でかっこいいオペラの中に、イタリアっぽい華やかな雰囲気がたっぷり含まれているのは言うまでもありません。それに、彼の人生の最後を飾るようなすばらしい聖譚曲(オラトリオ)の傑作にも、イタリア風のうっとりするような美しい色彩を取り入れ、心ゆくまで美しいメロディーをあふれさせたのは、ヘンデルがイタリアでしっかり修行した成果だと言えるのです。

とはいえ、イタリアにやってきたばかりの頃のヘンデルは、作曲家としてというよりも、むしろものすごい腕前の演奏家として大人気になったのも本当のことでした。
イタリアの誇りとも言えるスカルラッティ親子と仲良くなり、息子であるドメニコ・スカルラッティとオルガンの腕前を競い合って見事に勝ちました。それから二人はまるで水の中の魚のように、なくてはならない大親友になったというお話も、この頃の様子を伝えてくれています。

ナポリで楽しく過ごしてからローマに戻ってきたヘンデルは、歌劇『アグリッピーナ』というオペラを作って、イタリアの人たちを大喜びの熱狂の渦に巻き込みました。
聴いていた人たちは「われらが愛するサクソン人(ドイツ人)万歳!」と大きな声で叫んだのです。
その頃イタリアに遊びに来ていたハノーヴァの偉いお坊さんであるステファンという人が、ヘンデルに「ハノーヴァの宮廷で音楽のリーダーにならないか」と声をかけ、ヘンデルはすぐにお願いを引き受けました。

しばらくハノーヴァで過ごしたあと、ヘンデルはずっと前からあこがれていたイギリスへと向かいました。
二十五歳の秋のことでした。
当時のイギリスの音楽界は、パーセルという人が亡くなってからというもの、息ができないほどすっかり元気がなくなっていました。首都ロンドンには自分たちの国を代表する作曲家が一人もいなくて、すっかりイタリアの音楽やイタリアの音楽家たちにやりたい放題にされてしまっていたのです。

ヘンデルは、もともと音楽が大好きで、自分でもクラヴサン(チェンバロという昔の鍵盤楽器)を上手に弾くアン女王に挨拶をしたあと、まるで人間離れした天才的なひらめきを発揮して、ほんの十四日というものすごい早さで歌劇『リナルド』を書き上げて舞台で上演しました。
その大成功は、歴史に残るほどすごいものでした。
イタリアのオペラを武器にしたヘンデルの勝利は、見事で、そしてとても華々しいものだったのです。

その大成功がきっかけとなって、ヘンデルは「イギリスにずっと住もう!」と決心するようになり、ハノーヴァの王様に「ときどき故郷に戻ってもいいという約束で、仕事を辞めさせてください」と頼み込んで、イギリスに腰を落ち着けることになったのです。

イギリスでのヘンデルの活躍は、これまでにないほどものすごいものでした。
外国人の身でありながら王室の作曲家になり、アン女王にとっても可愛がってもらえましたが、その一方で、ハノーヴァの王家に対する気まずさが少しだけありました。
そして、その気まずい関係が、アン女王が亡くなったことで、ついに法律ではどうしようもない決定的な大事件へとつながってしまったのです。

アン女王の代わりにイギリスの王様になったのは、ハノーヴァ家のゲオルク、つまり後のジョージ一世その人だったからです。
もともとハノーヴァ王家の機嫌を損ねていたヘンデルが、新しい宮廷から遠ざけられてしまったのは、仕方のないことでもありました。

ジョージ一世が王様になってすぐの頃、大きなお祝いを兼ねて、テームズ川で船遊びのパーティーが開かれることになりました。
最高の美しさを集めた立派な船が川の真ん中に浮かび、おめかしした貴族のおじささまたちや上品なお姉さしたちが雲のようにたくさん集まる中、ジョージ一世はグラスを片手に周りの景色を楽しみながら、水といっしょにテームズ川を下っていったのです。そのとき、王様の船の近くに用意されていた別の船から、すばらしい音楽が響き渡りました。
何十人もの演奏家が奏でる大オーケストラの調べは、水面を越えて青い空まで届き、言葉では言い表せないほど壮大で美しい雰囲気をかもし出したのです。
ジョージ一世はあまりのすばらしさに感動し、近くにいたキルマンセッグ男爵を呼んで「あれは誰が作り、誰が指揮しているのだ?」と尋ねました。
キルマンセッグ男爵は進み出て、恐る恐る答えました。「ヘンデルにございます。今日の華やかなお祝いのために、ひそかにあの音楽を指揮しております」
するとジョージ一世はすぐにヘンデルの罪を許し、自分のもとへ呼ぶように命じました。そしてアン女王のときよりも厚く彼を優遇したという話は、歴史に残る美しいエピソードとして今も語り継がれています。
このときの出来事を、ジョージ一世の音楽を愛する心と広い器量のおかげだと考え、「王様は自分自身を罰することなしには、ヘンデルを罰することなどできなかったのだ」と伝える人もいました。

イギリスでのヘンデルの立場は、少しずつ変わっていきました。
かつては王室に守られ、お客様のような立場で穏やかに過ごしていたヘンデルでしたが、一七二〇年、三十五歳の働き盛りの血潮が体内で燃えさかると、彼は「象牙の塔」とも言える安全な場所を飛び出し、大衆と共に戦うことに、芸術家としての使命と生きる意味を見出したのです。
彼は丸腰で、大勢の観衆の中へと飛び込んでいきました。
自分の芸術は、すべての人に属するものでなければならないと感じたからです。
彼は作曲家であり、指揮者であると同時に、演出家でもあり、そして自分の劇場を経営する資本家でもありました。
この新しい環境が、外国人であるヘンデルにとってどれほど恐ろしい挑戦であったかは、誰にでも想像できることでしょう。
彼は二度も破産し、三度も殺されかけました。

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