将軍家光を狙う刺客
駿河太郎は、作戦通りに千代田城(ちよだじょう)本丸の石垣の陰に身を隠しました。
時は寛永十六年(西暦一六三九年)三月。今から三百十二年も前の、まるで夢の中のようにかすんだ、うつくしい春の真夜中です。
西の丸の裏側から、紅葉山(もみじやま)の一角をぐるりとまわってここまで続いた長い道灌堀(どうかんぼり)。その水草の中を半分は潜りながら、本丸までたどり着いた駿河太郎。当代の将軍・徳川家光を討ち取るという恐ろしい大望を抱き、真夜中の冷たい春の水に浸かっていたことも、少しも苦にしないほど元気いっぱいの勇ましい少年でした。
背負っていた一振りの刀を左腰に回し、全身のしずくを払うと、以前、お城大工の棟梁である泉田筑後(いずみだちくご)から手に入れた絵図面を頼りに、将軍家光の寝所の外まで忍び寄ります。約束通りに三枚目の雨戸をそっと押すと、雨戸は音もなく開き、まっ黒なうるしのような闇が、魚のように濡れた駿河太郎の体を、吸い込むように飲み込んでしまいました。
そこから広い廊下をいくつも曲がり、五十三もの部屋が続く「綾手の長局(あやてのながつぼね)」を無事に通り抜けると、その先に中庭に面した将軍家光の寝所があるはずです。
幸い、宿直の者にも見つかることなく、一気に刀を抜いて襖(ふすま)を開け放った駿河太郎でしたが、思わず「あッ」と声をあげて立ちすくみました。
青畳の上に、真珠色の絹の行灯(あんどん)が灯り、白綸子(しろりんず)の寝具が整えられた、間違いなく将軍家の寝所です。しかし、布団の中はもぬけの殻で、狙っていた家光の姿はどこにもありませんでした。
駿河太郎は徹底的に調べてここまで潜入したのですが、たった一つだけ知らなかったことがありました。将軍家光の寝所は、同じ屋根の下に東西南北と四つもあり、日や時間によってその場所をぐるぐると変えていたのです。
どこでどう触れてしまったのか、長局いっぱいに張り巡らされていた警備の鈴が、鋭い音を立てて近くから遠くへ、遠くから近くへと、カラカラカラカラと鳴り響きました。
「それッ、曲者だ! 者ども、出合え!」
御殿の中は、一瞬にして光の洪水のように明るくなりました。
老女、中臈(ちゅうろう)、腰元、端女まで、おびただしい数の女、女、女。
老いた者も若い者も、用意していた長刀や脇差をきらめかせ、駿河太郎ただ一人を狙って八方からドッと押し寄せます。彼を囲い込み、人垣を作って捕まえようと意気込んでいます。
この時、駿河太郎はまだ十六歳。花のような美少年でした。
水をくぐった体は、あちこちの灯りを受けてアユのように光っています。顔色は少し青ざめていましたが、刀を振り上げたまま、花吹雪のように押し寄せる女たちの軍勢をじっとにらみつけました。
片っ端から切り開いて外へ飛び出すことなど、駿河太郎の「神来剣(しんらいけん)」の腕前をもってすれば、決して難しいことではありません。ですが、それをやり遂げるには、群がる女たちの中に飛び込み、五人や十人は斬らなければなりません。
駿河太郎は、それがどうしても嫌でした。
狙うは将軍家光ただ一人。罪のない女たちを刀に任せて斬りまくるのは、自分の命が惜しいばかりの卑怯な振る舞いです。
「よーし、来いッ」
駿河太郎は大剣を回して、女たちの軍勢の一方に切り込みました。
どこにそんな技があったのか、長刀と脇差が五、六本も宙に舞い、女たちの先頭の二、三人が折り重なって廊下に倒れます。その上をツバメのように軽やかに飛び越えると、駿河太郎の体は廊下を幾重にも曲がり、さきほど入った雨戸の隙間から、おぼろ月が浮かぶ春の庭へとポンと飛び降りました。
「おのれ、曲者め!」
ハッと気がつくと、目の前には宿直の武士たちが二、三十人、円陣を組んで駿河太郎を待ち構えていました。
大奥でどんな騒ぎがあっても、表の武士たちは裏の長局へ入ることは許されていません。気をもみながら待っていたところへ、獲物のほうが自分から網の中に飛び込んできたようなものです。
もみ合いながら、駿河太郎はなんとかしてここを抜け出し、改めて作戦を立て直そうとしましたが、刻一刻と相手の人数は増えるばかりです。
「ええい、もう我慢ならん!」
三人でも五人でも斬って捨てようかとも思いましたが、腕はあっても血を流すことを嫌う駿河太郎。最後の手段として残された道はただ一つ。絵図面にあった本丸の「空井戸」を探し出し、そこに飛び込んで城外の人知れぬ場所へ逃げ出すことでした。
しかし、当時の本丸には七つの井戸があり、どれも恐ろしく深いものばかり。そのうちのどれが空井戸で、城外への抜け道になっているのか、簡単には分かりません。
駿河太郎は焦りに焦りましたが、前々からの熱心な研究が功を奏しました。大奥の池のほとり、風情のある石灯籠(いしどうろう)の陰に、それらしい井戸の縁(井桁)を見つけると、片手に刀を振りかぶって群がる宿直の衆を切り払い、思い切って井桁の中へ、ポンと飛び込んでしまったのです。しかし、その井戸の中に、ふだんは網が張られているということには、駿河太郎の知恵をもってしても、夢にも思い及びませんでした。
「それッ、手捕りにせい!」
空井戸の六尺下(約1.8メートル)に張られた網に手足をとられ、クモの巣にかかった虫のように無駄な足掻きを続ける駿河太郎は、ハシゴと槍と刺又(さすまた)で押さえつけられ、苦もなく縛り上げられました。
「無念……無念!」
と叫びながら、月明かりの下の庭へと引き出されたことは言うまでもありません。
怪人心外道人(かいじんしんがいどうじん)
大森の山の下、不気味な穴の中に、ひとりの隠者が住んでおりました。
人々は「心外道人」と呼んでいましたが、誰も本当の名前を知る者はなく、白髪で童のような顔立ち、ツルのように痩せて、道衣だけがいつでも真っ白なので、穴に住む人とは思えないような、すがすがしさと不気味さを感じさせます。
「お願いです、道人さま」
その穴の前、真っ黒な土の上に両手をついて、ひとりの少女がさっきから懇願しておりました。
年の頃は十四、五歳。モモの花のつぼみのように美しく、清らかな少女ですが、道人は経机の前に端座し、何やら指で印を結んで、一言も口をきこうとしません。
「お願いでございます、道人さま。兄が今日の昼ごろには、この先の鈴ヶ森(すずがもり)で磔(はりつけ)にされることになっております……。どんなことをしても、それを助けなければなりません。法力は広大で、この世にできないことのない道人さまと聞いて、わざわざ訪ねてまいりました。お願いでございます。道人さま、兄の命をお助けくださいまし」
少女はさっきから、泣いては訴え、訴えては泣き、涙も枯れ果てるほど嘆き悲しむのです。
「おまえは誰だ、兄は何という?」
道人は初めて振り返りました。
「兄は駿河太郎と申します――私はその妹の月子(つきこ)」
「なに? 駿河太郎というのか? 父親は誰だ――名はなんといった」
「父親は――」
少女はそっとあたりを見回しましたが、誰もいないと見定めると、
「父親は――駿河大納言」
「なに? なに?」
「甲駿二国の領主、徳川忠長卿(ただながきょう)。
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