滝山さんは金庫の鍵を持っているんだから、上の穴から手なんか入れなくたって、扉を開けて中を見られるはずじゃない」
「でも、中にある『平泉館』の記録なんて、滝山はいつでも見られるものなんだから、わざわざ爺やさんを殺してまで奪う必要はないだろう?」
健一が最後の切り札を出しました。
「たぶん、平泉館の記録というのは、最初は大事だったかもしれないけれど、今ではもう秘密でもなんでもないんだわ。滝山さんも、唐崎という人も、自由に中身を見られるのでしょう」
燿子はまた新しい説を立てました。
「…………」
「だから、その記録なんかどうでもよくて、本当はなくなってしまった銅板の方が大事なんじゃないかしら。銅板がなくなったせいで発掘が駄目になったくらいなんだから――」
「…………」
「爺やさんを殺した疑いを受けないために、わざと金庫を破って、そのあまり大事ではない記録を隠すか、あるいは燃やしてしまったんじゃないでしょうか――」
なんと鋭い明察でしょう。健一も綾子も、今さらながら燿子のたくましい知恵に驚かされてしまいました。
「それじゃあ、行ってみよう。牛込の綾子さんの家をもう一度調べたら――」
「駄目よ、お兄様。長州風呂の中に、日本紙を燃やした灰がたくさんあったわ。綴じ目の形まで少し残っているように見えたけれど、刑事さんが信用してくれるかどうか分からなかったから、黙っていたのよ」
二人はまたしても、うならされるしかありませんでした。燿子はいったいどこまで気がつくのでしょうか。
「で、燿ちゃんは、滝山が爺やさんを殺したと思っているのかい?」と健一が尋ねました。
「そんなこと分からないわ。誰かが滝山さんを疑わせるように仕向けているのかもしれないじゃない。唐崎という人だってすごく変よ。あの人は爺やさんを邪魔にしていたんだし」
「じゃあ、これからどうしたらいいんだろう、燿ちゃん」
水泳では「日本の誇り」と呼ばれる大選手ですが、こうした知恵比べにかけては、健一少年もまるで妹に歯が立ちません。
「なくなった記録は大したものではないし、爺やさんを殺した犯人もなかなか分かりそうもないなら、思い切って平泉へ行ってみるのがいいんじゃないかしら。ねえ、お兄様、一週間ばかり暇はない?」
「あるよ。ちょうど練習も済んだし、日本アルプスへでも行こうかと思っていたところだ。平泉へ行こう。燿ちゃん、綾子さんも一緒に」
冒険好きな健一は、すっかり有頂天になりました。
「そうしましょう。その銅板を探して、殺された潜水夫のことを調べて、私達の手で平泉館の宝庫を見つける方が面白いわ。でも、すごく危ないことがあるかもしれないけれど――」
「少し位の危険ならどこにだってあるさ。第一、平泉館の宝庫を発見すれば、綾子さんのお父様の汚名も晴らせるっていうものだよ」
「行きましょう、綾子さん」
燿子に手を握られると、綾子はいつの間にか涙を流していました。黙って見上げた彼女の瞳には、燿子の知恵と、健一の義侠心に対する感嘆の光が溢れています。
平泉へ――、平泉へ――。そこには一体、何が三人の少年少女を待っているのでしょう。
燿子が書いた――歩廊の小喜劇
「綾子さん、あの人を知ってる?」
「知らないわ。どうして?」
燿子は洗面所の前に立ち、半分開いた扉から、二等車に座るハイカラな青年を指さしました。
トンボの眼のような眼鏡をかけ、赤いネクタイに、荒い縞模様の背広、突き出た長い顎に、青白い顔色――なんとも不愉快な人相です。
同じ車の中にいる健一――詰襟の学生服を着て、浅黒い顔をした、明朗そのもののような彼と比べると、まるっきり別な人種のように見える青年でした。
「それがどうしたの、燿子さん?」
「おかしなことがあるのよ。綾子さんの鞄を覗いたり、ハンドバッグを調べたりしているの」
「まあ!」
「お兄様は呑気だから、そんなことを少しも知らずに、水泳の話なんかしかけられると夢中になっちゃうんだもの」
「どうしましょう、怖いよ、私」
「大丈夫よ、私に任せて。――もうすぐ仙台ね」
「ええ」
列車は間もなく、仙台の停車場に到着しました。停車時間は十分。物売りの声や、乗り降りする客でしばらく賑わっていましたが、やがて発車のベルが鳴ると、プラットホームに降りていた人々は先を争うように車内へと戻っていきます。
「さあ、降りましょう、お兄様」
燿子は突然、網棚から荷物を降ろしました。
「平泉はまだ先だぜ、燿ちゃん」
「でも、ここで降りて大事な大事な秘密の用事をかたづけるはずだったわ。お兄様は忘れてらっしゃるのよ、ねえ綾子さん」
「…………」
「待て待て、二人で勝手に降りちゃ困るな」
健一は大あわてで、両手に鞄を下げると、動き出しかけた二等車から飛び降りました。
「おや?」
後に残されたハイカラ青年の驚きようは、見物でした。
彼もまた大急ぎで手回りの荷物をまとめると、帽子を斜めに被り、靴をぶら下げ、鞄を抱えて、
「危ない危ない、飛び降りちゃいけないッ」
車掌の制止も聞かず、動き出した列車からプラットホームに飛び降りました。
尻餅を一つ突き、転がった帽子を拾って改札口の方へ行ってみると、たった今降りたはずの綾子、燿子、健一の一行は、影も形もありません。
「おや」
ひどく面食らった青年が、念のために振り返ると――なんと、今しがた滑り出した列車の、自分たちが乗っていた二等車のすぐ隣の三等室の窓から、三つの首が重なり合ってこちらを見ているのです。
「さようなら」
大茶目な燿子は、鼻先で指を振りました。
「悲しみの塑像」の綾子も、この時ばかりはたまらなくなって吹き出しました。
正直者の健一だけは、二等車から引きずり下ろされるようにして、すぐ隣の三等車に乗せられた理由が飲み込めていないらしく、いかにも不思議そうに、このプラットホームでの小喜劇を眺めているのでした。
「あんなことをしてもいいのかしら、燿子さん。少し可哀そうね」と綾子。
「だって降りるのは向こうの勝手じゃないの。私はおかしくって、おかしくって――」
燿子はただもう笑い転げています。
父博士が遺した――大事業を継続して
「あ、お嬢様」
「花井さん、電報をご覧になって?」
「ええ。潜水夫の奥さんと二人で、すっかり小屋を片づけておきましたよ」
書生の花井一郎は、綾子から鞄を受け取ると、あらかじめ雇っておいた自動車に乗せました。
「三人泊まれるかしら」
「去年まで七人も泊まっていましたよ」
立花博士に信用されて、平泉館発掘の事務所を任されているだけに、花井一郎は若いわりには、なんとなく頼もしい男でした。
「何か変わったことはない?」
「何もありませんよ。北上川の堤防はそのままだし、銅板の絵図面は相変わらずどこへ行ったか分からないし――仕方がないから、お高さんと二人で、仕事を始めるのを待っているんです。僕はいつまでここにいても驚きませんよ。退屈なんかするものですか、勉強にはこんなよい場所はないですからね」
花井はそんなことを言っています。
来年あたり専検の試験を受けようとしている花井にとって、これほどよい勉強場所はなかったのでしょう。
間もなく一同は、判官館の下、木立の中に隠れん坊をするように建てられた、発掘事務所の小屋に着きました。
コメント