少年時代からピアノで並外れた才能を見せ、両親の大きな期待を背負って15歳の時にパリ音楽院へ入学し、ピアノやオルガンの演奏で何度も賞を取りました。その頃、大ピアニストとしてヨーロッパ中に君臨し、名誉と地位、そして莫大な富を手に入れていたフランツ・リストの華やかな姿は、フランクの両親に「息子を大ピアニストに育て上げたい」という夢を抱かせたのでしょう。
しかし、若いフランクはその両親の願いを裏切るように作曲に没頭し、作曲家への登竜門である「ローマ大賞」を狙って努力を重ねました。そのために父親の激しい反対に遭い、作曲も学業も諦めて、故郷のベルギーへ帰らなければなりませんでした。それが、彼が20歳になった1842年のことです。
なぜ世の中の報酬は、作曲家には薄く、演奏家には厚いのでしょうか。これはフランクに限った話ではありません。この厄介で極端な不均衡が、古来どれほど多くの天才を貧困と飢えに追い込んできたことでしょう。
それはさておき、2年後の1844年には、フランクはもう一度パリという激動の地へ飛び込み、独力で自分の運命を切り開こうと奮闘しました。家計がそれほど豊かではなかったという事情もありましたが、フランクの苦難に満ちた生活はここから始まりました。1848年にパリの街に築かれた革命のバリケードを乗り越えて、女優デスムソーの娘との結婚式に向かった頃から、フランクはますます強い意志と健康を必要とする逆境に立ち向かわなければならなくなったのです。彼は生活費を稼ぐために、毎朝5時半に起きて作曲に励み、その後は一日中、和声やピアノを教えなければなりませんでした。
周囲の青年たち
1846年に最初のオラトリオ「慈悲」が初演され、1850年には歌劇の一部が完成しましたが、フランク自身は理想に到達するまでの道のりの長さを感じ、それから10年間はほとんど作曲の筆を断ちました。1860年以降も、目立った活動はなかったようです。
一方で、フランクのオルガン奏者としての名声は次第に高まり、1858年には聖クロティルド教会のオルガン奏者の地位を得ました。彼はほぼ生涯にわたってこの職にとどまり、オルガニストとして確固たる名声を保ち続けました。1872年にはパリ音楽院のオルガン教授となり、翌1873年にはフランスに帰化し、1890年に亡くなるまでの約20年間に、彼の傑作が次々と完成されていったのです。
フランクの周囲には、その人柄を慕い、作品に強くひかれる青年たちが集まりました。まさに「桃李もの言わざれど下自ら蹊を成す(徳のある人のもとには自然と人が集まる)」という言葉通りです。その青年たちの中には、のちにフランス音楽界で大きな旗印となるダンディ、ショーソン、デュパルク、ロパルツ、ピエルネ、ヴィダール、シャピュイといった巨星たちがそろっており、フランクを中心に、ここに新時代の若々しい活気が生まれていったのです。
しかし、それにもかかわらず、フランクの作品が世間に知られるまでには長い時間がかかりました。フランクの音楽が地味で、知的で、安っぽい媚びたところがなかったために、一般人はもちろん、当時の音楽家たちでさえ、その真価を理解できなかったのでしょう。
死の前年
亡くなる前年の1889年、フランクの最高傑作であり、ベートーヴェン以来の偉大な交響曲とも言うべき「交響曲ニ短調」がパリ音楽院で初演された時のことです。当時フランス音楽界で活躍していたグノーが、取り巻きを引き連れて会場にやってきました。演奏後に感想を求められたグノーは、「無能な肯定――」と公言して、あからさまにフランクをけなしました。
この言葉は、歌劇「ファウスト」を作曲したグノー自身の価値を高めるものではありませんでしたが、当時のフランクの作品に対する世間の評価がいかに無慈悲で、無理解であったかを物語っています。この初演を終えて帰ってきたフランクに、家族が演奏の様子を尋ねると、彼は「うん、予想した通り、よく響いていたよ」と答えました。六十八歳になった老フランクの淋しげな姿を思い浮かべると、思わず涙ぐんでしまいそうになります。
その翌年の早春、「弦楽四重奏曲 ニ長調」が初演されました。このとき初めて、観客からフランクの作品に対する理解ある喝采が送られました。
フランクは傍らにいた人に「とうとう、私が信じていた通り、世間の人も私の曲を鑑賞してくれるようになった」と語ったといいます。
しかし、六十九歳にして初めて喝采の喜びを味わったフランクに、もはや残された時間はほとんどありませんでした。
まもなく不運な事故で負傷し、肋膜炎(ろくまくえん)を患って、その年の冬――一八九〇年十一月八日、多くの弟子たちに惜しまれながら、パリの自宅で静かに息を引き取りました。
フランクの尊さ
これまで、人間セザール・フランクの素晴らしさについて書いてきました。
フランクの作品は、その形の上では古典的ですが、表現方法は極めて近代的です。ドビュッシーの印象派とはまた別の、新しい感覚と深い味わいを持った領域を、近代音楽の中に切り開いたのです。
彼の思想の中核にあるのはカトリックの教義ですが、当時の新しい精神主義(ネオ・スピリチュアリズム)の運動とも通じ合うものがあると言われており、芸術作品としては想像以上に真摯なものです。
ロマン派特有の感情の誇張や、ドイツ音楽のような難解な理屈っぽさはフランクにはありません。しかし、彼の楽曲には建築物のような合理性と雄大さがあります。神秘的でありながら、非常に色彩豊かであるという点が、当時の人々にはすぐには理解されなかった理由でしょう。それと同時に、汲めども尽きぬ深い精神性が宿っている理由でもあるのです。
フランクの作品とそのレコード
フランクは寡作(作品数が少ないこと)であり、その音楽は派手な大衆性とは無縁であるため、レコードの数も決して多くはありません。
しかし、その数少ないレコードが、どれも聴く価値のある素晴らしいものばかりであるという点は、他の作曲家と大きく異なるところです。そんなところにも、フランクという人物への敬慕の念が深まっていくことでしょう。
交響曲、交響変奏曲
「交響曲 ニ短調」は、フランクが残した唯一の交響曲です。構造の雄大さと壮麗さ、そして精神的な内容の深さにおいて、これに並ぶものは過去にも未来にもありません。
フランクの天才的な才能と努力、そしてフランス風の交響曲の妙味が、この一曲で完成されたと言っても過言ではないでしょう。
レコードとしては、ストコフスキーがフィラデルフィア管弦楽団を指揮した豪華な演奏が一番のおすすめです(ビクター JD九九八―一〇〇三)。
「交響変奏曲」は、ピアノとオーケストラによる優雅な合奏曲です。
この目の覚めるような美しさの中にも、フランクらしい内容の深さが失われていないのは本当に素晴らしいことです。
レコードは、コルトー(ピアノ)とロナルド指揮のロンドン・フィルハーモニック管弦楽団による演奏を挙げるべきでしょう(JD五二七―八)。情愛に満ち溢れつつも、胸がすくような鮮やかな演奏です。
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