一七七〇年十二月、ドイツのボンという町で、音楽家の家系にルードヴィッヒ・ファン・ベートーヴェンは生まれました。
彼の父親はボンの宮廷で働く音楽家でしたが、意志が弱く、お酒におぼれるような人で、息子を導く立派な指導者とは言えませんでした。
その一例として、父親は自分の子供を天才少年に仕立てて一儲けしようと、昼も夜も休みなく、ベートーヴェンに過酷なピアノの練習を強いました。そのせいで、せっかく芽生えた音楽への愛が枯れてしまいそうにもなりましたが、幸いなことに、ベートーヴェンはこの厳しいレッスンのおかげで、単なる十歳の神童で終わるのではなく、何百年もの時を超える英雄的な音楽家としての土台を築くことができたのです。
父親の酒癖が、少年時代のベートーヴェンをどれほど苦しめたかは計り知れません。
街の悪ガキたちにからかわれながら、泥酔した父親を背負って家まで帰るという屈辱的な経験が、ベートーヴェンの「負けてたまるか」という強い心をより頑固なものにし、イバラの道をしかめっ面で突き進むための最初のきっかけになったのでしょう。
さらに、十七歳のとき、愛情以外には何も持たないような、優しくも無知な母親を亡くしてからは、ベートーヴェンの細い肩に、酒のせいで職を失った父親と、幼い弟たちの生活すべてを支える重責がのしかかりました。
しかし、そんな逆境の中でもベートーヴェンの天才は芽を出しました。十三歳でボンの宮廷オルガン奏者に任命され、十六歳の時には最初のシンフォニーである「イエナ」を作曲しています。
モーツァルトと初めて対面したのは、それから間もなく、ベートーヴェンが初めてウィーンを訪れた時のことでした。
当時、ヨーロッパ中で名声が轟いていたモーツァルトにとって、田舎から来た少年ベートーヴェンはそれほど重要な存在ではなく、彼が目の前で弾いた「即興曲」も、あらかじめ準備していたものだと思われたのか、ありきたりな褒め言葉をかけられただけでした。
少年ベートーヴェンは、モーツァルトの冷たい態度にカチンときました。そこで彼は、モーツァルトに「今のテーマを使って即興で弾いてくれ」と頼み、その場で豪快かつ華麗な変奏曲を弾き上げました。演奏が終わるやいなや、驚き呆れるモーツァルトを尻目に、彼はさっさとドアを閉めて外へ出て行ってしまいました。
その背中を指差しながら、モーツァルトは友人にこう叫んだと伝えられています。「見ていろ、いつか彼の名は世界中に響き渡ることになるだろう」と。
父親の死を経験したベートーヴェンは、ついに音楽の都ウィーンで生きることを決意しました。二十二歳の時のことです。
当時のベートーヴェンはまだ若く、野心にも燃えていました。仕事柄、社交界に出入りすることも多かったので、都会の流行に合わせようと努力しました。当時の流行に従って、もみあげを長く伸ばしたり、ヒゲを蓄えたり、さらにはダンスの練習までしたと言われています。
ベートーヴェンのハイカラな姿を想像するだけで笑いがこみ上げてきますが、幸いなことに、彼は「自分は流行の紳士なんてガラじゃない」とすぐに自覚しました。そして間もなく、そんな気取った生活を捨てて、本来の「田舎漢(いなかもの)」としての自分へと戻っていったのです。後年のベートーヴェンは、まるで荒々しい隠者のような姿で過ごすようになりました。ぼさぼさのライオンのような髪、鋭く光る眼差し、伸び放題の無精髭。ポケットには物を詰め込み、上着は裏返しで、靴底はボロボロ。そんな姿でウィーンの街を歩き回っては、散歩の途中で農家の牛を驚かせてしまうことさえありました。
「熱情ソナタ」や「運命交響曲」、そして「皇帝協奏曲」といった名曲は、すべて彼が芸術の炎の中に自分自身のすべてを投げ込んだ、そんな極限の境地から生まれたものなのです。
もしベートーヴェンが、都会風の小綺麗な紳士のまま一生を終えていたとしたら――想像するだけで震えが止まりません――私たちは音楽芸術における巨大な財産を、人類にとって最も尊い宝物を、手にすることができなかったことでしょう。
**強大なる自尊心**
ベートーヴェンの自尊心は、あらゆる芸術家の中でも類を見ないほど巨大なものでした。その誰にも屈しない強固な魂と、威張るわけではないけれど決して頭を下げない態度は、時にはウィーンの人々全員を敵に回すこともありましたが、結果として世界中の人々を彼の音楽の前にひれ伏させることになったのです。
ハイドンはそんな彼を「蒙古の王様」と呼んで距離を置き、ゲーテは「手に負えない野人だ」と舌を巻いて驚きました。
ある演奏会では、客席でひそひそと私語を交わす貴婦人たちを叱りつけ、「こんな豚たちに聴かせるピアノではない!」と言い放ってピアノの蓋を閉じ、さっさと帰ってしまったこともあります。また、戦争のさなかに避難していたリヒノフスキー伯爵邸で、フランス軍の将校たちのためにピアノを弾くよう強要されたときには、断固として拒絶し、そこから二百キロもの道のりを歩いてウィーンへ帰ってしまったこともありました。
彼は召使と争い、隣人と争い、劇場の支配人と争い、パトロンの貴族とさえ争い、人生のほとんどを戦いながら過ごしたのです。
ある時、ゲーテと散歩をしていると、ウィーンの宮廷で働く貴族たちの一行に出くわしました。ベートーヴェンは「あの人たちが、我々に対してどんな態度をとるか、試してみようじゃないか」と言うと、帽子のつばを深く下げ、上着のボタンをしっかりと留めて、貴族たちのど真ん中へと堂々と歩いていきました。
貴族の一行の中にいたプリンセスは、その傍若無人なベートーヴェンの姿を見て、微笑みながら挨拶をし、道を開けて通してくれました。ところが振り返ってみると、一緒にいたはずのゲーテは、道の脇で恭しく中腰になり、極めて丁寧な態度で貴族たちを見送っていたのです。
追いかけてきたゲーテに対して、ベートーヴェンはこう言いました。「あなたは偉い人ですが、あの人たちに対しては丁寧すぎますね」と。
ワイマールの賓客であり、大詩人であり大政治家でもあったゲーテは、ベートーヴェンのあまりの野蛮さに、ただ苦笑するしかなかったことでしょう。
ナポレオンが一気にフランス革命の血の惨劇に終止符を打ったとき、ベートーヴェンはその英雄的な魂に憧れを抱き、「第三交響曲」を作って彼に捧げようとしました。すでにフランス大使を通じて手続きまで進めていたのですが、偶然にもナポレオンが執政官としてフランスの独裁者になったと聞くや、「彼もまた、ただの野心家に過ぎなかったのか」と怒り、総譜のタイトルを破り捨てて戸棚の奥に投げ込んでしまいました。
しかし後日、ナポレオンが没落してセント・ヘレナ島に流されたとき、彼はその楽譜を取り出し、「俺はこれ(没落)を予期していたよ」と言って、第二楽章の葬送行進曲を指差したと伝えられています。
もちろん、ベートーヴェンにナポレオンの没落を予言する能力があったわけではありません。おそらくは、第三交響曲の第二楽章として書いた「勝利の悲しみ」とも呼ぶべき葬送行進曲が、偶然にもナポレオンの没落という歴史的事実と重なったのでしょう。
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