音楽家として生きるには、一朝一夕では得られない深い知識が必要だと悟った彼は、ライプチッヒ大学の音楽学生となり、優れた先生であるワイリングの下で六か月間、猛勉強を続けました。そこで和声学と対位法の基礎をしっかりと身につけ、自分の力で羽ばたくための土台を築き上げたのです。
ワグナーの伝記をめくってみると、愛らしい少年時代から、世界を敵に回して戦った中年期、そして名声を手に入れた晩年に至るまで、まさに真っ赤な血が通った奮闘の歴史であることがわかります。それは、百獣の王ライオンがもがくような力強さであり、あらゆるイバラの道を足で踏みしだきながら前へ進む、巨人の姿そのものです。
古今の音楽史の中でも、これほどまでに戦い続けた作曲家は、おそらくワグナーをおいて他にいないでしょう。
オペラ『妖精』を作ったあたりから、ワグナーの音楽家としての生活が本格的に始まりました。
一八三三年、二十歳でヴェルツベルクの劇場の声楽教師となり、その後はケーニヒスベルク、リガと指揮者を渡り歩きました。六年間、小さな街の劇場を転々としながら、人生の苦労という苦労をすべて味わい尽くしたのです。
二十三歳のとき、美しい女優ミンナと結婚しましたが、その生活はワグナーにとってもミンナにとっても、決して幸せなものとは言えませんでした。
ミンナはあまりに美しく、また少し浅はかなところがありました。ワグナーの貧しい暮らしには似合わないだけでなく、何度も破綻の危機を迎えた中年期以降の夫婦生活においても、夫の天才的な芸術を理解することができませんでした。彼女は、夫を自分の思い通りになる平凡で窮屈な生活の中に押し込めようとしたのです。
もっとも、二人の関係が最終的に壊れたことについては、ワグナーの態度も決して褒められたものではなく、彼にも十分非難されるべき点があったとは思います。しかし、二人が破局へと向かった最大の原因は、妻が夫という人間を理解できず、その天職に対する情熱に寄り添えなかったことにあったと言って差し支えないでしょう。
ワグナーの芸術の出発点はロマン派にありました。
後に彼の思想はドイツの民族主義に根を下ろし、高度な理想主義へと発展していきましたが、若き日のワグナーが当時の新しい改革思想の影響を受け、猪突猛進に突き進んでいったのも、また無理からぬことだったのです。
第九の救い
リガの指揮者を追われたワグナーは、自分の芸術が人々に直接届くことを求めて、情熱の赴くままにパリへと飛び込みました。
しかし、パリという街は、無名の青年作曲家を大歓迎するほど甘い場所ではありませんでした。期待と希望は、ことごとく裏切られてしまったのです。
狡猾なライバルたち、意地悪な劇場、そして無理解な出版社。彼らは、哀れな異国の青年作曲家を、飢えのどん底へと突き落としました。
骨身に沁みる失望と空腹は、ワグナーをこれでもかというほど苦しめました。
靴の底は抜け、髪を整える小銭さえ持っていない――そんな、骨の髄まで凍りつくような幻滅と悲しみを味わいながら、彼が切に夢見るのは、故郷ドイツの景色、そしてそこに住む人々と芸術のことでした。
しかし、一日一日と迫りくる空腹を、夢や後悔だけで追い払うことはできません。
このときのワグナーにとって、生き残るために残された選択肢は「死ぬか、泥棒をするか」しかないとまで言われていたほどです。
絶望と自棄(やけ)で自信を失いかけていたある日、ワグナーは音楽院でアベネックが指揮するベートーヴェンの交響曲第九番を聴きました。
天から降り注ぐような声が、高らかにワグナーの耳に響きました。
「人生の希望は、ここにある。光明よ、歓喜よ。これこそが真実の音楽なのだ」と。
ワグナーはふらふらと自分の貧しい部屋へ帰りましたが、あまりの興奮で熱を出してしまい、翌日も一日中ベッドから起き上がることができませんでした。
こうして、ベートーヴェンの音楽はワグナーにとって天からの啓示となり、彼が進むべき道を教えてくれたのです。
一八三九年に『ファウスト序曲』を書き、一八四〇年に『リエンツィ』を書き、一八四一年には『さまよえるオランダ人』の構想を練り、ワグナーの天才は火のように燃え上がりました。
そして翌一八四二年、『リエンツィ』がドレスデンの宮廷劇場で上演されると、予想以上の大成功を収め、ワグナーは一躍、作曲界のスターとなりました。
続いて『さまよえるオランダ人』も上演され、熱狂的な歓迎を受けたワグナーは、ついにドレスデンの王立オペラ座の指揮者として、ドイツ音楽界で重要な地位を占めるまでになったのです。
ワグナーの生活は、幸福で順調なものとなりました。
その後すぐに傑作『タンホイザー』が上演され、さらにモーツァルトやベートーヴェンの作品を紹介して人々の音楽への理解を深めましたが、それはまだ、ワグナーにとっての本当のゴールではありませんでした。その頃から、ワグナーの力は劇場の支配人たちから嫉妬を買うようになり、新聞までを敵に回して、もう逃げ場のないほど追い詰められた状況へと足を踏み入れてしまいました。
さらに悪いことに、友達関係やその他の事情から政治運動に巻き込まれてしまいます。本人は実際の活動に参加したわけではなかったのですが、ついに逮捕状まで出されてしまいました。ワグナーは命からがらスイスのチューリッヒへ逃げ込み、ここから長く苦しい放浪生活が始まったのです。
外国での放浪生活は、一八四九年、彼が三十六歳の時から、一八六一年、四十八歳になるまで、実に十二年もの長い期間に及びました。
生活の基盤をすべて失ったワグナーを最初に襲ったのは、恐ろしいほどの貧しさであったことは言うまでもありません。
ワグナー自身、「自分には政治家のような野心はなく、ただの芸術家にすぎない」と自覚したところで、今さらどうなるものでもありませんでした。
長い貧乏生活の間、ワグナーをよく支えてくれたのは、彼の芸術を深く理解し、その音楽を世に広めようと努めてくれた友人のリストでした。
またワグナーは、若い芸術愛好家たちの一団とも知り合いました。その中には、才能あふれる青年ピアニストであり、後に偉大な指揮者となるハンス・フォン・ビューローもいました。
ワグナー自身が「眠ること以外には、何の楽しみもない孤独な日々」「絶えずお金の苦労に追い回される貧しい生活」「満足も希望もない毎日」と語った通りですが、一方でこの時期は、ワグナーにとって芸術的な解放の期間でもありました。
その間にワグナーは、一生をかけた大傑作、四部作からなる大楽劇『ニーベルンゲンの指環』のほとんどすべてを書き上げたのです。
この『ラインの黄金』『ワルキューレ』『ジークフリート』『神々の黄昏』という四つの作品は、ワグナーが理想とした音楽劇を形にした傑作であるだけでなく、音楽の歴史に燦然(さんぜん)と輝く、巨大な金字塔となりました。
彼の思想は、その音楽の手法とともに次第に円熟していきました。高まった英雄主義には、ショーペンハウエルという哲学者のような「人生は苦しみだ」という考え方が混ざり合い、運命に翻弄される悲劇の暗さが、世界全体に広がるような愛の理想と結びついていきました。
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