初級翻訳・楽聖物語 第45話

楽聖物語

ピアノ協奏曲とピアノ管弦楽合奏曲

二つのピアノ協奏曲のうち、「第一番 変ホ長調」については、多少の老いによる緩みはあるにしても、ザウアー(ピアノ)とワインガルトナー指揮パリ音楽院管弦楽団の演奏を推すべきでしょう。
この二人の長老がリストに対して抱いている深い愛情と、優雅で古風な表現は、聴く人の心に寄り添うものです(コロムビア JS101-3)。
他にもビクターのレヴィツキー盤や、コロムビアのギーゼキング盤があり、どちらも悪くありません。
「第二協奏曲 イ長調」についても、同じことが言えます(コロムビア JS120-2)。ペトリのレコードもありますが、心構えという点では、先ほどの老人たちの足元にも及びません。
ザウアーはもう八十歳という高齢ですが、今もなお音楽界から深く尊敬を集めているだけあって、その美しい演奏には青年のような勢いと輝きが宿っています。
この二つの協奏曲をレコードにしてくれたことは、音楽界にとって本当におめでたい出来事だと言えるでしょう。

「死の舞踏」は、外見上の華やかさが目立ちますが、とてつもない迫力を持った曲です。
意気込みも、技巧も、コロムビアから出ているキレニー(ピアノ)が弾き、マイロヴィッツが指揮するパリ交響楽団の演奏が名演です(JW540-1)。
「さすらい人の幻想曲」や「アテネの廃墟の幻想曲」といった、リストが得意とした編曲ものもありますが、これといった名盤はあまりありません。

ピアノ・ソナタとその他の作品

「ピアノ・ソナタ ロ短調」は、たった一つの楽章だけで最後まで突き進む曲で、リストの力強さがこれでもかというほど溢れ出ています。
レコードでは、ビクターから出ているホロヴィッツの演奏(JD216-8)が凄まじい出来です。おそらくホロヴィッツの傑作レコードの一つでしょう。他にもコルトーの演奏(ビクター7325-7)もあります。
「演奏会用エチュード」第二番のコルトー(ビクターJD196)、「愛の夢 第3番 変イ長調」のルービンシュタイン(ビクターJD768)、「水の上を歩む聖フランシス」のコルトー(ビクターJD1250)などは、特に注目すべきレコードです。
また、編曲ものとして有名な「ラ・カンパネラ」は、パガニーニのヴァイオリン曲をピアノ用にアレンジしたものですが、レヴィツキーはこれを十八番にして演奏していました(ビクターJD1660)。パデレフスキーの演奏も、良い記念レコードとなっています(ビクターVD8198)。

巨人ワグナー

明治三十五年の夏、初めて東京に出てきた石川啄木が、小日向の素人下宿で、ワグナーの「白鳥の騎士(ローエングリン)」の英訳本を夢中で読んでいたことを、私はよく覚えています。
石川啄木はワグナーを劇詩人として語り、私は「音楽を抜きにしてワグナーを語るなんてとんでもない」と主張して、半日楽しく議論し合った思い出があります。それから三十七、八年経った去年の夏、函館図書館を訪ねた際、岡田館長のご厚意で啄木の日記を見せていただきました。そこには、明治三十五年の欄に私との頻繁な交流が記録されており、若き日の未熟なワグナー論の思い出と重なって、なんとも言えない懐かしさに包まれました。

当時、世界中を夢中にさせた「ワグナー主義」という流行は、上田敏博士(当時は学士)などによって紹介され、日本の青年たちをも熱狂させました。まだ一度も聴いたことのないワグナーの音楽にさえ皆が夢中になったことは、中年以上の世代の元文学青年たちなら、誰もが覚えていることでしょう。
ワグナーがもたらした影響はあまりに強烈で、一時は世界の音楽界を巻き込み、「ワグナーこそが音楽のすべてだ」と思わせるほどでした。それは紛れもない事実だったのです。

ワグナーの音楽が与える感動は力強く、また深いものでしたが、熱烈なファンがいる一方で、常に「アンチ・ワグナー」の動きも生まれていました。時には、ワグナーの業績や芸術のすべてを、地の底に埋めてしまいたいと願う人々がいたことも事実です。
「良い面と悪い面が半分ずつ」という言葉は、ワグナーの場合には当てはまりません。
一八六〇年代からおよそ四分の三世紀の間、ある時は世界中がワグナーの敵となり、またある時は世界の三分の二が彼の熱烈な味方となる、といった状況だったのです。

今日の世界で、ワグナーの主張や音楽をすべて肯定する人はもういないでしょう。しかし同時に、現在の世界の音楽界は、ワグナーがいなければ存在し得なかったということも、大きな事実なのです。「ワグナーという波」は、何度も何度も繰り返し、世界の音楽界を塗り替えていきました。
その愛憎は人や国、時代によって様々でしたが、ワグナーの影響力はあまりに強大で、ヴェルディも、ムーソルグスキーも、ビゼーも、そしてワグナーとは全く対照的な存在だったドビュッシーの作品でさえ、その影響から逃れることはできませんでした。
ワグナーを、バッハ、ベートーヴェンと並んで「音楽の三大巨人」と呼ぶのは正しいことです。好むと好まざるとにかかわらず、ワグナーが切り開いた時代と、その英雄的な功績を否定することは誰にもできないのですから。

努力と戦闘

リヒアルト・ワグナーは、一八一三年五月二十二日、警察書記官のフリードリッヒ・ワグナーと妻ペーツの間に、九番目の子供としてライプチッヒで生まれました。
父のフリードリッヒはその年のうちにチフスで亡くなり、母は半年後にガイヤーという人物と再婚しました。彼は俳優であり、素人画家でもあり、戯曲も書くような人でした。たくさんの子供を抱えて、生活の見通しは決して明るくはありませんでした。
幸いなことに、継父のガイヤーは心優しく愛情豊かな人で、ワグナーは何の苦労も感じずにすくすくと育ち、生涯を通じてこの継父に感謝の気持ちを持ち続けたと言われています。
ワグナーの少年時代は、モーツァルトのようなキラキラとした音楽の天才がすぐに開花したわけではありませんでした。しかし、自由奔放で、芯の強い独特な個性を持った少年だったことは間違いありません。
彼は劇を愛し、ホメロスやシェイクスピアに夢中になり、十一歳の時にはすでに「ロイバルド」という戯曲を書いていたほどです。継父のガイヤーはワグナーに絵画を習わせましたが、彼はデッサンや手本をなぞるだけの練習には我慢がならなかったようです。音楽についても同じで、決められた手順を踏むような修業は、ワグナーの性に合いませんでした。
八歳のとき、ウェーバーのオペラ『魔弾の射手』を観て感激のあまり涙を流し、その美しいメロディをピアノで弾いて病床の継父を驚かせたというエピソードは有名です。しかし、その後ピアノの先生についても、指を動かすだけの退屈な練習を嫌がったため、「この子は音楽家にはなれない」と見限られてしまいました。ヴァイオリンの先生に至っては、「一番困った生徒だ」と太鼓判を押される始末でした。
そんな彼が、ベートーヴェンの『エグモント』と交響曲を聴いて、まるで天からの啓示を受けたかのように奮い立ったのは十四歳のときのことです。

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