憎い親父だが、徳川家にとっては無二の忠臣だ」
天魔太郎は裾を返すと、サッと飛び降りました。
「待て、待て!」
「彦左、しばらくその白髪の首を預けておくぞ」
天魔太郎は、目ばかりパチパチさせている彦左衛門を後ろに残して、夏の夜の闇の中に姿を消してしまいました。
◇
大久保彦左衛門は、徳川家のためには無類の忠臣でしたが、徳川の家を思うあまり、国松君(駿河大納言)を退け、その兄弟である家光を盛り立てて三代将軍に据えたのであり、そこにはもちろん個人的な私心などありませんでした。
しかし、人間というのは実に頑固で強情で、負けず嫌いを練り固めたような親父でした。あまりに腹が立つので、天魔太郎の幻術でキリキリ舞いをさせられたことなどは、もちろん口にも出しません。
世間が何も知らずにいるうちに、次の順番は、当時老中第一の知恵者であり、昨年島原の乱を平定して武勇の誉れが日本中に鳴り響いたばかりか、後年には由井正雪一味の謀反の企てまで見破って「知恵伊豆」という異名をとった――参州吉田の城主七万石、松平伊豆守信綱の方へと回ってきました。
それは五月になったばかりのある夜のことです。伊豆守信綱は、寝所で天下の政治のことなどを、あれやこれやと考えておりました。青畳が目にしみるようで、絹の吊夜具がふんわりと体を包む中、伊豆守は目を閉じて静かに思いを巡らせています。
「お、おや?」
にわかに雨が降ってきたようです。さっきまでは星が降るような美しい夜だったのに、と思いながら目を開くと、有明の絹行灯がスッと暗くなり、軒を叩く雨の音がますます激しくなりました。それはやがて、数千万挺の鉄砲を一斉に撃ち込むような、恐ろしい音に変わります。
「これはたまらぬ」
と思って宿直の家来を呼ぼうとしましたが、どうしたことか、少しも声が出ません。そのうちに、寝所の屋根がポカリと開いて、月などなかったはずの夜空が銀ネズミ色に見えたかと思うと、篠突くような大雨が、伊豆守の頭の上から遠慮会釈もなくたたきつけるのでした。
「あッ」
と思う間に、寝所の畳の上いっぱいに水が溜まり、伊豆守を乗せた床も、枕元の行灯も、刀掛けの刀までがフワフワと浮き上がります。起き上がろうとしましたが、どうしたことか体が自由になりません。そのうちに、どしゃ降りの雨はますますひどくなり、畳の上の水は三尺から五尺になり、ついには一丈(約三メートル)にもなりました。
気がついてみると、床をめぐって左右前後に、鯉やら鮒やら鯰やら、おびただしい魚が銀色の鱗をひらめかせ、ゆうゆうと泳いでいます。
「殿さま、お召しでございますか」
銀の鈴を鳴らすような可愛らしい声が聞こえました。振り返ると、右手の方、枕元近くで魚群をかき分け、一匹の人魚が桃色真珠の肩を水の上に出して、見事な黒髪をサッと水面に漂わせています。
「何者だッ?」
伊豆守は、五臓六腑を振り絞るような心持ちで、ようやく口を開きました。
「ご覧の通り、この世のものではございません。殿さまの宿業の恐ろしさゆえ、御殿もご家来も、一瞬にして水の底に沈んでしまいました。ですが、松平伊豆守さまおひとりだけは、やり残した罪の懺悔のために、しばらく水の上に浮かんでいるのでございます」
「なんと申す。予に何の罪があるというのだ」
伊豆守は呆然として、床の上で起き上がりました。不思議なことに床は筏(いかだ)のように水に浮き、夜の水がヒタヒタと伊豆守の白無垢の寝巻の膝を濡らします。
「言うな。島原で十万のキリシタン宗徒を殺し、駿河大納言忠長さまを上州高崎で窮死させたのは、ことごとくその方――伊豆守信綱の差し金ではないか」
もう一匹の人魚が、黒髪をサッと水になびかせて、反対側の左手から肩を出しました。
「無礼ッ!」
知恵伊豆も、さすがに腹を据えかねました。プカプカと水に浮いている刀掛けに手をのばして、それを引き寄せざま引き抜こうとすると、
「まあ、殿さま、お腹立ち」
明るい嘲笑を浴びせて、二匹の人魚は、水の上にとびあがりざま、伊豆守の左右の腕をピタリとおさえたのです。
腹から下は、銀色のうつくしい魚体。それが、月子とお千代の仮装したかわいらしい人魚姿とは知るよしもありません。
伊豆守信綱は、ただ、人魚の体温が、あたたかいのに肝をつぶしただけです。
「頭が高いぞ、信綱ッ」
その伊豆守の頭のうえから叱咤の声。ハッとふりあおぐと、二匹の怪魚をともなった白衣金冠の荒々しい海神が伊豆守を見おろして、サッと鉾をふるのです。
「なにもの?」
「名乗ってやろう。大納言忠長の一子、駿河太郎ならびにその妹の月子。なんじをひっ捕えて、龍宮城の白州に頭をうずめさせるはたやすいことながら、しばらくは命を助けてつかわす。
将軍家光をいさめて、謝罪の誠をつくさばよし。さもなくば、家光ならびにその家来を、生きながら八寒地獄に追いおとして、いつの世までも苦しみをなめさせようぞ」
駿河太郎は鉾をのばして伊豆守の頭をコツンとたたくのです。
左右の魚はさながら地獄にいる鬼の姿。それが野州の熊五郎と、小僧の虎吉とは、もとより知るよしもありません。
だが、この天下の老中に対するあるまじき侮辱は、いつまでもつづくはずもなく、やがて宿直の家来が気がつき、殿中は大騒ぎになりました。しかし、伊豆守の寝所に叱咤の声が突っ走り、ゴウゴウと波の音がするくせに、四尺の大唐紙は鉄の扉のごとく厳重で、押せども引けども、ビクともすることではありません。
「このうえはッ」
五、六人の若侍は、力をあわせて唐紙を押し倒すと、なかは床の上に座ったままの伊豆守たったひとり。有明の行灯が明滅するだけ。いままでの水や人魚、そのほか怪しいものの影も形もありません。
幻術と称する集団催眠術は、こうして悪夢のごとくさめてしまったのです。
あくる晩は、おなじ老中、阿部豊後守忠秋の番でした。
若いころは、将軍家光の頭をポカンとなぐって、高慢な鼻をくじいたり、大洪水の隅田川を、馬に乗ったまま泳ぎきって家光の御感にあずかったり、正直一途ではあるが、武勇のうわさ高い殿さまです。
豊後守忠秋は、そのとき朝の膳についておりました。
高蒔絵の足高の膳の前。諸事簡素な豊後守ですが、武州忍の城主で十万石。増上寺切通しの上屋敷は、みどり深い林のなか。
まことに風致ゆたかなたたずまいで、朝の小鳥が、初夏のうつくしい陽ざしをよろこんで、チ、チ、チと庭の木だちに鳴いております。
給仕女はふたり、左右にかしこまっておかわりを待っていると、
「あッ」
飯の椀が豊後守の手をはなれて、フワフワと宙に舞いあがるではありませんか。
部屋のなかにいるのは、豊後守のほかには、若い召使がふたりだけ。ただもう、あれよあれよと、肝をつぶしてさわぐだけです。
「なにものッ」
豊後守が一刀をひきよせた時は、つづいて汁椀も、香のものも、一汁三菜のしっそな膳までが、あやつり人形芝居の糸にあやつられたように、フワフワと宙につりあげられて、そのまま大きい部屋を、右から左へ、上から下へと、おどりくるうのです。
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