「これは大変だ。誰かに様子を聞きたいが――あ、お千代さんはダメだ、顔を見られるとまずい」
天魔太郎は駆け出そうとするお千代を引き留めて、あたりの様子を見ているうちに、反対の路地の奥からこちらを覗き込んでいる十二、三歳ほどの小僧の姿を見つけました。そっと手招きすると、小僧は三人のところへ鞠が転がるように飛んできました。
泉田筑後の家に使われている、今年十三歳になる虎吉という無類のいたずらっ子です。
「お嬢さん、大変なことになったよ。旦那さまとおかみさんは、謀反(むほん)の疑いで縛られて、明日は首を斬られることになったんだ!」
「えっ、それは本当かえ、虎吉?」
「誰がウソをつくものか!」将軍さまのお城へ忍びこんだ、なんとかいう大悪党にお城の絵図面をやったんだってね。
おかげで家中の者は、むほん人の一味にされて、みんなしばられていったぜ。
うまく逃げたのは、おいらと猫のミイ公だけじゃないか。
早くその大悪党のむほん人野郎の、なんとか太郎の首でもとってこなきゃ、旦那さまとおかみさんを助ける見こみはないぜ。
どうしたものだろうお嬢さん」
小僧の虎吉は、その将軍の首をねらった天魔太郎をまえにして、こんなえんりょのないことをいうのです。
「それはお気の毒。私が名のって出るほかはあるまいな」
「あれ、お兄さま!」
月子はおどろいてとりすがりました。純情少年の兄・天魔太郎は、自分のためにめいわくしている大勢の人を見ると、命を投げだしてでも名のり出る気になるのでしょう。
「太郎さん、そんなことでは、大勢の人を助けられそうもありません。ほかによい工夫はないでしょうか」
お千代も月子と力をあわせて、天魔太郎のはりきった袖をおさえるのでした。
「なんだ、この野郎が将軍さまの首をねらった大悪党か。きやがれ、おまえのために旦那さまは殺されかけているんだぞ!」
小僧の虎吉はまたたいへんなことをいいはじめます。
「おまえの知ったことではない、だまっておいで。それより人にすがたを見られないうちに、おばさんのところへでも――」
お千代は虎吉をなだめて、天魔太郎、月子と四人づれ、神田鍛冶町のおばさんの家に人目をしのんでたどりつきました。そこから伝馬町の大牢までは、そんなに遠いところではなく、天魔太郎は、いちど落ちついて妹やお千代のことをたのむと、日ぐれも待たずに出動して、何やかやとさぐりはじめました。
さいわい、ならいおぼえた幻術で、めったなことで人にすがたを見られるようなことはありません。夕方から宵の六ツ半(夜七時)ごろまで、大牢の内外、のこるくまなくさぐってきましたが、月子やお千代の顔を見ると、
「こまったことに、伝馬町の大牢の守りはおそろしく厳重だ。いかな幻術の力でも、あれをやぶる工夫はなく、うっかり水火の術をもちいると、多くの人にけがをさせなければならない。牢番頭の同心、太田原伝三郎は、牢のカギをあずかっているのだが、あれさえ手にはいれば……」
と、思案もつきて嘆息するのです。天魔太郎は、あすにせまるこの大難局をどうやりとげるでしょう。
◇
大猿の出現
「お、なにやらもの音が――」
天魔太郎がおっとり刀で縁がわへ出たのは、その夜の四つすぎ(夜十時)でした。雨もようの春の夜はウルシのようにまっくらで、どこからか花のにおいがただよってくるのが、みょうにこの闇を怪しいものにしております。
「お兄さま、猿が」
うしろからのぞいたのは月子でした。
「お、次郎坊ではないか!」
縁がわにしゃがんでいるのは、あの丹沢の山奥に住んでいた夫婦猿のうちの雄、次郎坊の人なつっこそうな顔だったのです。
「どうしておまえは、ここへきたのだえ?」
月子はなつかしそうに、大猿の次郎坊の首のあたりをなでましたが、ふと気がついたのは、次郎坊の首に見たこともないうつくしい首環がはめてあることでした。
「おや、それは手紙ではないか!」
首環からはずした小さな包み、その中に手紙が入っているのを見つけると、天魔太郎は月子の手からうけとって、あんどんのそばにもってゆきました。
「先生のお手紙じゃありませんか、お兄さま!」
それはまぎれもない心外道人の筆跡で、
――猿の次郎坊を助太刀にやる。おまえたちの幻術はまだ未熟だから、力およばないことがあったら、次郎坊に相談するがよい。次郎坊はなんでも心得ている――
とこうかいてあるのです。猿と相談するというのは、ずいぶんおかしなはなしですが、この次郎坊というのは、畜生ながらひじょうに賢こく、人のことばもおおかたはわかり、「西遊記」の孫悟空ほどではなくとも、ともかく、たいした働きのできることは、天魔太郎も月子もよく知っております。
「次郎坊。よくきてくれたね、ありがとうよ。私たちは今、この方――お千代さんのお父さまとお母様を伝馬町の牢からお助けしなければならない。でなければ、おふたりはあすは小塚原(こづかっぱら)で首をきられるのだよ――わかったかえ」
天魔太郎が話してきかせると、お猿の次郎坊は、コックリ、コックリと利口そうに首をふるのです。
「いいかえ、牢のカギは同心太田原伝三郎が、夜も昼も腰にぶらさげ、三人の腕の強い武士が、それを守護しているのだ。私の幻術を助けて、おまえはそのカギをとりあげてくれ」
天魔太郎はお猿にいいきかせると、昼から夕方へかけてさぐっておいた牢屋敷へ、妹の月子と、猿の次郎坊をつれて出かけました。春の夜、十一時を過ぎた頃。なまぬるい風が雨を呼び、いつの間にか土砂降りの雨となっていました。
一方、牢屋の番頭である同心・太田原伝三郎は、雨戸をしっかりと閉め切り、八畳の奥の間で、進藤、今井、久保田という三人の剣士を相手に、酒を酌み交わしながら中国の詩を吟じていました。
「どうだ進藤、明日はついに、泉田筑後夫婦を小塚原の刑場へ引き出して首をはねるのだ。その景気付けに、しっかり飲め」
豪傑で腕も立ち、人を人とも思わぬ太田原伝三郎は、三人の武士とともに、両刀をすぐそばに置いたまま、さかんに酒をあおっています。
「どうも少し変だぞ。さっきから眠気がしてたまらないのだが……」
そう言ったのは、三人の剣士のうちの久保田でした。
「そういえば、部屋の中に煙がたなびいていて、景色がぼーっと霞んで見えるようだ」
今井という男もそう答えました。
雨戸の外で天魔太郎と月子が、心外道人から直々に伝授された幻術を使い、四人の武士を眠らせようとしていたことなど、彼らが知るはずもありません。
「何を言うか、酒のせいだよ。こんな風にフラフラするのは」
太田原伝三郎は肩肘を張って強がりますが、放っておけばコクリコクリと居眠りをしてしまうのを、どうすることもできませんでした。
その時でした。欄間に何やら影が差したかと思うと、一塊の怪物が、四人が車座になって酒を飲んでいる頭の上へ、サッと飛び降りました。そして、たった一つしかない行灯(あんどん)を、パッと叩き消したのです。
「や、おのれ、怪物め!」
「おのおの、用心しろッ!」
と怒鳴りましたが、真っ暗闇の中で四人の武士がもつれ合い、うっかり刀を抜くこともできません。
コメント