あとは、これといって特筆すべきリート(歌曲)歌手は見当たらないように思います。
純情の奇才ベルリオーズ
小児の心
世にも不思議な音楽家、それがエクトル・ベルリオーズです。作曲家としての彼の業績は、山の頂上からさらなる頂上へと飛び移るような超人的な飛躍であり、芸術家としての志は英雄的ですらありました。それにもかかわらず、人間ベルリオーズは、まるで小さな子どものように純情で、乙女のように感傷的であり、自分自身の心さえ制御できず、弱さを隠そうともしない人物でした。
六十五歳まで山登りをやめなかったベルリオーズは、一度情熱に火がつくと、雨の中を散歩したり、雪の中で眠ったりすることも平気でやってのける、鉄のような肉体の持ち主でした。しかしそんな彼が、十二歳のときに憧れた六つ年上の少女――大きな瞳をして薔薇色の靴をはいたエステル――への想いを、五十年の時を経て六十一歳になっても忘れられず、七十歳近い老婆となった彼女の皺だらけの顔の中に、十八歳の昔の面影を見出そうと必死になっていたのです。
彼は彼女の住む寒村に全神経を集中し、「この秋は、彼女のそばで一か月暮らそう。もし彼女から手紙が来なかったら、僕はパリというこの地獄の中で死ぬことになるだろう」と口にするほどでした。彼はパリの街角の石の上に座り込んで泣きました。しかし、老いたエステルにこの狂人のような振る舞いが理解できるはずもありません。「今さらそんなことをして何になるのですか」と彼に書き送るのが精一杯でした。それでも、老いたベルリオーズは、彼女のそばで死ぬことばかりを夢見ていたのです。「君の足元に座り、君の膝に頭をのせ、君の手を握って――」と、そう書き送るのが、六十歳の少年ベルリオーズの心意気だったのです。
この「小児の心」を持つ人物こそが、音楽の世界においては、最も革新的な仕事を大胆不敵にやり遂げた闘士でした。傑作「ファウストの劫罰」はベートーヴェンの死の翌年に着手され、そのまた翌々年の一八三〇年には、早くも標題音楽の最初の傑作「幻想交響曲」に取りかかり、近代音楽の険しい道を開きつつあったのです。
当時はリストはもちろんのこと、ワーグナーの「リエンツィ」さえまだ現れておらず、世の中は古典音楽という形式の枠組みの中で、来るべき夜明けにも気づかず、のんきな夢を見ていたのは言うまでもありません。ロマン・ロランがベルリオーズを指して「唯一のフランス音楽家」と呼び、ワインガルトナーが「ベルリオーズがいなかったならば、ワーグナーやリストが存在したとしても、我々は今日ある場所には到達していなかっただろう」と評したのは、まさに至言というほかありません。窮乏と純情
ベルリオーズ(エクトル・ベルリオーズ)は、一八〇三年、フランスのグルノーブル近郊に生まれました。
医師であった父親は、家庭で息子を教育し、音楽の手ほどきまでもしてやりました。しかし、ベルリオーズの興味が次第に音楽へと傾き、やがて音楽に対して異常なまでの情熱を燃やすようになると、世間並みの親たちと同じように、息子が音楽家になることに厳重に反対しました。
最初、医学校へ入れられたベルリオーズでしたが、解剖室の空気にどうしても耐えることができず、ついに学校を飛び出し、音楽の修業に専念することになったのです。
――物事に耐えられない(辛抱ができない)というのは、一生ベルリオーズにつきまとった病癖のようなものでした――そのせいで父親の怒りを買い、学費の援助を打ち切られたことで、ベルリオーズの惨めな生活は、早くもこの時から始まったのです。
ベルリオーズの精進ぶりは、涙が出るほど見事なものでした。
欠乏と闘いながらの七年間の苦学は、まさに英雄的であったと言っても過言ではありません。
パリ音楽院の正規課程はなんとか終えましたが、彼が抱いていたロマンティシズムの新しい傾向、とりわけ従来の常識を逸脱し、古臭い伝統を無視する態度は、世間の反感と攻撃を受けずにはいられませんでした。
ベルリオーズは、最も勇敢な「形式の破壊者」でした。
いや、破壊することこそが、ベルリオーズの形式であったと言ってもよいでしょう。
彼は自分の心の要求に応えるためなら、少しも美しくない音楽でさえ書こうとしました。
因習に頼って思想の貧困に甘んじるくらいなら、もっとも大胆な反逆者となって、新しい生命を燃やす一片の薪になろうとしたのです。
師にも友人にも見放されたベルリオーズは、生活のために場末の劇場の合唱団に入り、細々とその日を歌い暮らさなければなりませんでした。しかし、そんな弱い心の中に根を張る不退転の英雄魂は、そんなことではひるみませんでした。
一八三〇年、幸運にも交声曲「サルダナパール」がローマ賞を獲得し、三年間ローマへ遊学する機会を得ましたが、ここでもベルリオーズは落ち着くことができず、結局二年足らずでパリへ帰ってしまいました。
そして生活を支えるために、嫌々ながらも音楽批評の筆を執らなければなりませんでした。
ベルリオーズの飛び抜けた奇行は、ヘンリエッタ・スミスソンとの関係で頂点に達します。
この女優は英国生まれの美人でしたが、ベルリオーズはたった一度、彼女のシェークスピア劇を見ただけで、もう彼女のことが忘れられなくなってしまったのです。
当時、人気絶頂だった女優が、貧乏な作曲家の求愛を冷たく拒絶したのは言うまでもありません。
激情家のベルリオーズは、まるで狂人のようにあてもなく彷徨いました。
夜も昼もなく、「ある夜は町に近い野原で、ある日はソオの近郊の牧場で、またある時はセーヌ河畔の雪の中で、時には彼を死んだと思い込んだボーイを驚かせながら、カフェのテーブルの上で――」と伝えられています。
彼は眠くなるまで歩き回りました。
そして彼女を軽蔑し、彼女を呪いました。
ベルリオーズの傑作「幻想交響曲」は、青年音楽家の病的な幻想を描いたもので、「夢」「情熱」「舞踏会」「野の風景」「断頭台への行進曲」「悪魔の祝祭の夜の夢」という標題が示す通り、明らかにヘンリエッタ・スミスソンに対する激情と呪いを書き綴ったものなのです。
その後、数年が経ちました。
再びベルリオーズの前に現れたスミスソンは、もはやかつての彼女ではありませんでした。
彼女はその魅力をすっかり失ってしまったうえに、シェークスピア劇は大失敗に終わり、巨額の借金まで背負って、かつては見向きもしなかったベルリオーズの懐へと飛び込んできたのです。
純情家であったベルリオーズは、大手を広げて彼女を受け入れました。
彼女が抱え込んできた一万四千フランもの借金が、どれほどベルリオーズを苦しめたかは言うまでもありません。
ベルリオーズはパリの聴衆に対し「愛妻スミスソンのために復讐する」と言いましたが、そんなことは夢のまた夢でした。
「ファウストの劫罰」が大きな期待を背負って上演されたときも、誰一人としてお金を払って見に行く者はなく、ベルリオーズは完全に破滅してしまったのです。
新妻スミスソンは結婚してみると、常識的で忠実ではありましたが、きわめて平凡な英国の女性でした。
そんなある夜、ベルリオーズは夢の中で、素晴らしい交響曲の主題を授かりました。
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