「道人さま、こんなところに住んでいては、何かとご不自由ではありませんか?」
太郎が不思議がると、道人はこう言いました。
「いやいや、私にはとても良い友だちがいるのだよ。紹介してやろう」
道人はそう言いながら、あるリズムで四つ五つ手を叩きました。すると「キ、キ、キ」というような鳴き声がして、どこからともなく二匹の大猿が現れました。もんどり打つように縁側に降りると、きちんと膝を揃えて、道人におじぎをするのです。
「次郎坊、おてく。ここにいるのは天魔太郎と月子という兄妹だ。これから一緒に住むことになったから、よく言うことを聞いて、大事にしてあげるのだよ」
「キ、キ、キ、キ」
二匹の夫婦猿は、奇声を発しながら、まるで人間のように丁寧におじぎをしました。
「この猿は、私が七年もかけて仕込んだものだ。人間の言葉は話せないが、人間の言うことはよくわかる。なんなりと用事を言い付けるがよい」
心外道人はそう言って、お猿を相手に、あれやこれやと仕事を言い付けるのでした。
◇
幻術の修業が、どれほど骨の折れるものであったか。それは書ききれるものではありませんが、これは中世ヨーロッパの魔法や、インドで発達した妖術が、明時代の中国に入って道教などの影響を受けて発達した、不思議な術であったことは、様々な物語や本で明らかにされています。
丹沢山中のかくれ家。庭にある自然石の大きなテーブルの上に、太郎と月子は毎日座らされ、精神統一をさせられました。やさしいことから難しいことへ。変身や隠身(姿を消す術)、風に乗ったり、雲を呼ぶ術までも、ひと通りはマスターしたのです。
春が過ぎ、夏が去り、秋が終わると、丹沢の山々は雪に閉ざされます。しかし、ふたりの兄妹と心外道人は庵の中にこもり、夫婦猿に用事を言いつけながら、たいした不自由もなく、翌年の春を迎えました。
「もうよい。これ以上はふたりの心がけ一つだ。上達する者は上達するだろうし、忘れる者は忘れていくだろう。私にはもう教えることは一つもない」
ある日、心外道人はふたりを前に並べてそう告げました。
「ありがとうございます、お師匠さま。このうえは、親の敵である三代将軍・家光を、どうして討ち取ったものか。それを教えてください」
太郎はキッと顔を上げ、たくましい望みを口にしました。
「もっとも至極な望みだがな、太郎。将軍家光はたいした人物でなくとも、『将軍職』という位は容易なものではない。その証拠に、おまえはいつか、十重の守りを破って千代田城に忍び込んだにもかかわらず、将軍家光を討つことができなかったではないか」
「では、どうすれば……?」
「おまえが腕とともに徳を磨いて、将軍家光以上の人間になり、将軍職よりも尊い人間の位を備えさえすれば、家光は苦もなくおまえの手で討ち取られるだろう」
「そのためには、どんな苦しい修業でもいたします!」
太郎は、心外道人の膝に取りすがらんばかりに、一生懸命お願いするのでした。
「それはたいそう難しいことだが、人は徳を積むよりほかに、位に勝つ工夫はないのだ」「たとえばおまえが、千代田城へ大手をふって乗り込み、家光の首をとってくるためには、魔法も幻術もたいした役には立たない。だが、もしおまえが百人の命を助けたとしたら、自然と神の恵みを受けて、刃物がなくとも家光を討ち取ることができるだろう」
「お話の意味が、私にはよくわかりかねます。どうしたら私は、百人の命を助けることができるのでしょう」
天魔太郎には、心外道人の言っていることが、はっきりと飲み込めていない様子です。
「それは、私がいちいち教えるまでもない。おまえの心に聞いて、その場その場で決めてゆくのだ。――たとえば、あれだ」
心外道人が指さしたほうを見ると、この山の広場に通じる石の洞窟の戸を開けて、ひとりの少女が、旅の姿も健気(けなげ)に、あたりの様子をうかがいながら、こちらのほうに近づいてくるではありませんか。
「あれは、お師匠さま」
「おまえたちも知っているはずだ。お城大工の棟梁、泉田筑後(いずみだちくご)の娘、お千代だ」
「あ、お千代さんよ、おにいさま!」
月子はもう、旅の少女の顔を見ると、心外道人の思惑も構わずに草履をつっかけて、山の草花が咲きほこる中を、洞窟の入り口のほうへと駆け出していくのです。
「どうしてお千代さんが、こんな山の中へ来たのでしょう」
「私が呼んだのだよ。お千代の父親であるお城大工の棟梁・泉田筑後は、おまえに千代田城の大奥の絵図面を貸したことがバレて、妻の操(みさお)と一緒に縛り上げられ、伝馬町の牢に入れられた。日夜の激しい取り調べに、命も危うくなっているのだ。あのまま放っておけば、死罪になるか牢死するか、いずれにせよ助からぬ命だろう」
「それを、どうしてお師匠さまが?」
「山を下りれば、大変な評判になっているよ。泉田筑後はこの麓の生まれだ。私はともかくも、おまえたち兄妹に引き合わせるために、ひとり思い悩んでいる娘のお千代を、ここまで呼び寄せたのだ。お千代は蝶に誘われたり、野良犬に追われたりしながら、何も知らずに江戸から丹沢山までやってきたのだよ」
そう話しているうちに、お千代は月子に迎えられて、まるで夢の中を歩くようにフラフラとこちらへ近づいてきます。
「お千代さん!」
天魔太郎は思わず縁側を飛び降りて、妹の月子とともに、泉田筑後の娘・お千代を迎えました。スミレもタンポポもヒナギクも、広場いっぱいに咲き誇る中で、ふたりの少女とひとりの少年は、思わず手をとり合って、この不思議な巡り合わせに、しばらくの間、涙に濡れておりました。
「よし、あれでよし。あとは太郎と月子が存分にやってゆくだろう」
それを眺めた心外道人は、この美しい情景をあとに、旅支度もせずに、ひょうぜんと山の庵を立ち去るのでした。
◇
泉田一家の災難
丹沢の山奥から江戸へ、天魔太郎とふたりの少女は、菜の花畑の蝶のように、のどかな春の旅を続けました。
いや、のどかだと見えたのは、勇ましくもやさしい少年少女の旅姿の上辺だけで、心の中はお千代の両親、お城大工の棟梁・泉田筑後とその妻・操の身の上を案じて、ついお千代の遅い足がもどかしく感じられるのでした。
江戸へ入ると、まず築地小田原町にあるお千代の家へ向かうつもりでしたが、
「待って、あれはなんでしょう」
はるかに見える我が家を指さして、お千代は天魔太郎の袖を押さえました。
大工棟梁・泉田筑後の家は、町人風の住居ではありますが、小田原町の一角を占める磨き抜かれた格子造りの立派な屋敷です。子分衆から職人たち、下女下男数十人を養って、この世の繁盛を一身に集めた暮らし向きでしたが、それがなぜか物々しく、凄まじい妖気を漂わせていて、近づきがたい雰囲気を放っていたのです。
「どうしたのお千代さん」
天魔太郎は立ち止まりました。
「あれ、家中の者が、みんな縛られて……」
お千代が指さした泉田筑後の家からは、番頭も小僧も、下女も下男も、子分も居候までもが、みんな厳重に縛り上げられ、目明かしや岡っ引きに追い立てられて、真昼の往来へゾロゾロと引き出されているではありませんか。
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