「ではせめて、鈴ヶ森の仕置場で私を救ってくださった、あの不思議な術は何と申すものでしょうか。できれば、その術を私ども兄妹に教えてくださり、この大望を遂げさせてくださいませ。お願いでございます」
兄の駿河太郎と妹の月子は声を揃えて、道人の膝にすがりつくのでした。船はせまく、その上、海には夜の八時を過ぎた頃から風が吹き始めました。
「その術を教えることはやぶさかではないが、修業はなかなか難しいぞ。私が身につけた術というのは、昔、果心居士(かしんこじ)という道人が大明国(中国)へ渡り、神仙から習得したと伝えられる幻術の一種なのだ。私はその三代目にあたる」
「幻術……ですか?」
「これは忍術の一種だ。魔術とは違って、理屈に基づいたものだが、普通の知恵や凡庸な考え方では、習い覚えることは甚だ難しい」
忍術とは武術の一種であり、修練を積めば誰でも一定の域に達することができます。しかし幻術は、人の心の奥深くに分け入って行う術であり、今の言葉で言えば「集団催眠術」のようなものです。それに当時の幻術はまだ秘術として扱われており、一部の学者に伝えられていた「原始的な化学」を応用したものでした。一方、魔術とは手品の一種であり、これは「詐術(さじゅつ)」と言ってよいものです――と、心外道人は丁寧に説明してくれました。
「すると、それはキリシタンの教えのようなものでしょうか?」
駿河太郎が尋ねました。
「いやいや、キリシタンは異国の教えではあるが、紛れもない正当な教えであり、何ら不思議なものではない。私の幻術は『究理学(物理学)』とは深い関わりがあるが、宗教とは一切関係がないのだ」
「そう伺いますと、ますます修業したくなりました。どうか私にお教えください、道人さま」
「よしよし、十分に教えてやろう。だがその前に、一つ二つ、心に留めておいてほしいことがある」
「どのようなことでしょうか、道人さま」
「まず、駿河太郎という名前を改めることだ。その名は父君である駿河大納言を連想させて、何かと不便だろう」
「なんと名乗ればよろしいでしょうか、道人さま」
「『天魔太郎』はどうだ。将軍家光に天誅を加えるのだからな」
「ありがとうございます。道人さま」
「それから、幻術とは天地の理法(自然の法則)に従ったものであり、人に危害を加えることを目的とした術ではない。これを習得し、父の仇である将軍家光を討ち取るためには、その代償として、まず百人の命を助けなければならない」
「百人の人を、ですか?」
駿河太郎は驚きました。口で言うのは簡単ですが、この世の中でたった一人を救うことさえ、容易なことではないからです。
「一人の命を救うことが、やがてその一族郎党、九族を救うことになる。百人の命を救うことも、決して不可能なことではない」
「――――」
「修業は今夜、思い立った時からすぐに始めるがよい。妹の月子は女ながら天分がある。兄に負けてはならぬぞ」
「はい、道人さま」
月子は可愛らしい顔を上げて答えました。
「兄の太郎もまた、妹に負けてはならぬ」
「はい」
「よいか――あれを見るがよい」
心外道人は真っ暗な夜空に向かって杖を突き上げ、何か文字を書きました。それから船べりに立ち、胸を張って「フ――」と息を吹きかけると――。
「あ、あれは!?」
みるみるうちに海上の闇、漆黒の夜空に五色の雲がムクムクと湧き起こりました。その雲を踏んで、身の丈数百丈(数百メートル)もの怪天魔が現れたのです。蛍光に包まれた袖を払い、双刃の剣を大上段に構え、鏡のように光る目を大きく見開いて、牡丹の花のような口をカッと開くと、凄まじい火炎を吐き出しました。
漆黒の海の上に、中天高くそそり立つ怪天魔の姿。怒りに満ちた目と鋭い牙、そして牡丹の花のような口を開き、船もろとも四人の人間をひと飲みにしようと迫ってきます。これが心外道人の幻術だと分かっていても、駿河太郎――いや、天魔太郎も、その妹の月子も、生きた心地がしませんでした。
船べり近くに立っていた心外道人が、手を挙げてサッと払うと、怪天魔の姿はかき消すように消え失せ、後には真っ黒な荒れ模様の夜の海だけが残りました。
「どうだ、太郎、月子。少しは驚いたようだな」
振り返った心外道人は、面白そうに笑うのです。
「道人さま、これは一体どういうことでしょう。それが幻術というものなら、どうか私ども兄妹に教えてください」
天魔太郎は船底に手をついて、熱心に願い出るのでした。
「教えるとも、教えるとも。だが、修業はなかなか難しい。まず一年ほどは山にこもり、死んだ気になって修業しなければなるまい。それから、一通りの幻術を覚えたとしても、将軍家光を討ち取るのは極めて困難な仕事なのだ」
心外道人は船を漕がせて海岸沿いに南へ南へと逃げ延び、頃合いを見て上陸しました。そして、丹沢山の奥深くにあるとある洞窟へ太郎と月子の兄妹を導いたのは、それからちょうど五日目の昼過ぎのことでした。
「修業中は、しばらくここで暮らすのだ。多少の不自由はあるだろうが、その代わり、四季折々の眺めは関東随一と言ってもよい」
洞窟の前の台地に立つと、ちょうど見頃を迎えた山桜の花霞が、まるで源氏物語の雲のようにたなびいており、その間から菜の花の黄色い毛氈(もうせん)を敷き詰めたような里の景色が広がっています。遠くには玉川の銀の帯の向こうに、江戸の町並みまでもが、ほのかに見えているのでした。「さて、おまえたちの新しい住まいを見せてやろうか」
心外道人は先に立って、うす暗い洞窟の中へと入っていきました。左右の壁も天井も、岩はエメラルド色に苔むしていますが、暗くて陰気で、とても人間が住めそうな場所ではありません。
「だいぶ驚いたようだな。だが、安心するがよい。本当の住居はこっちだ」
道人は、何やらブツブツと呪文のようなものを唱えながら、右手の岸壁を二つ三つ叩きました。すると、大きな岩に見えたもの――実はみどり色に塗られた木のクサビがポコリと落ちて、心外道人が大地を踏みしめるのに合わせて、畳一枚ほどの「偽装の岩の扉」が、音もなくギーッと開いたのです。
「アッ!」
太郎も月子も、驚いて声をあげました。扉の向こう側は、どこから明かりが入っているのか、思いのほかきれいなトンネル状の道が続いています。そのトンネルが突き当たったところにもう一つの扉があり、さっきと同じ手順で開けると、そこはまるで真昼の世界でした。
花が咲き乱れ、鳥がさえずる数万坪ものみどりの盆地。花の咲く小道をゆけば、三間四方ほどの、思いもよらぬ小ぎれいな庵が建っているではありませんか。
「さあ、中へ入って休むがよい。当分はここがおまえたちの住家だ。丹沢山の奥の奥、切り立った岩に囲まれた盆地で、飛ぶ鳥か、猿やウサギのほかには誰もやってこない場所だ」
ふたりの兄妹は心外道人に導かれ、奥の部屋に座りました。戸棚を開けると寝具も座布団も揃っており、崖から落ちる水は水晶のように冷たく清らかです。それを汲んできさえすれば、すぐにお茶も沸かせるし、ご飯も炊けるのでした。
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