初級翻訳・楽聖物語 第58話

楽聖物語

「第三交響曲」をはじめとする数々の傑作がこの間に生まれ、チャイコフスキーの音楽家としての生活は、ようやくここで安定と自信を得るに至ったのです。
1876年には有名な「スラヴ行進曲」を書き、翌1877年には生涯の傑作歌劇「エウゲニ・オニエギン」を完成させました。
この歌劇が実際に上演されたとき、ロシアで最も大きく、最も人気のある歌劇だと認められ、「一番驚いたのはチャイコフスキー自身だった」と言われています。
この歌劇は、ロマンチックでメロディーが豊富で、少し甘美なところがあり、当時の人々の好みに合わせるにはまさに満点だったと言えるでしょう。
そんなチャイコフスキーに、突如として不幸が訪れたのは、1877年の初夏のことでした。その結婚は、友人たちにも一切秘密で行われました。あまりに不幸な結末を迎えたため、一番の親友だったカシュキンでさえ、チャイコフスキー夫妻が一緒にいるところを一度しか見たことがなかったというほどでした。

チャイコフスキーの結婚生活は、恐ろしいほど悲惨な破綻に終わりました。
彼はますます口数が減り、憂鬱な気分に沈み込むようになり、その苦しみから逃れたい一心で、霜が降りるほど寒い夜に川に入って自殺をしようとしたことさえありました。
弟の献身的な看病と休養を経て、チャイコフスキーは不思議なほど明るい「第四交響曲」を書き上げ、「イタリア奇想曲」や「第二ピアノ協奏曲」を次々と生み出しました。
中でも、ナポレオンがモスクワに攻め込んだ様子を描いた「序曲1812年」は、初演のときに太鼓の代わりに本物の大砲を使ったと言われ、誰からも愛される有名な曲になりましたが、チャイコフスキー自身は、この曲が派手に演奏されることをひどく嫌がっていたのも事実です。

先輩であり、心の友でもあったニコラス・ルービンシュタインは、1881年に亡くなりました。
生前はあれほどチャイコフスキーの作品を無視し、冷たくあしらっていたルービンシュタインでしたが、チャイコフスキーはその思い出のために、「偉大な芸術家の思い出に」という題名をつけた、美しくも悲しい「ピアノ三重奏曲イ短調」を作曲しました。これはあまりにも有名な話です。
チャイコフスキーの情に厚いところと、人の良さは、この美しいトリオと共に、何千万年も先まで語り継がれることでしょう。

歌劇「マゼッパ」の初演の日には、自分の曲が人気になりすぎたことに驚いて、モスクワから逃げ出してしまったこともありました。
1885年にクリンの町近くの田舎で暮らしていたときには、近くの海水浴客が練習するピアノの音がうるさくて、たまらず逃げ出したこともあったほどです。
その頃のチャイコフスキーは、晩年のベートーヴェンのように毎日欠かさず散歩をしていました。道に出ると近所の子どもたちにせがまれて、持っている小銭をすべてあげてしまうような人でした。ある日、そんな無意味な贈り物は感心しないと友人に注意され、別の道を通ってこっそり家に帰ろうとしたところ、待ち伏せしていた子どもたちに囲まれてしまい、結局、同行していた友人からお金を借りてまで全員に配ってしまった……というような、お人好しで憎めないエピソードも残っています。

86年には「第五交響曲」を書き、歌劇「スペードの女王」を完成させました。
バレエ音楽「眠れる森の美女」と、一生の傑作「くるみ割り人形」を発表したのは1892年のことでした。

憂鬱の総勘定

その頃から、あんなに頑丈だったチャイコフスキーの体も次第に衰え、目も悪くなってきました。
彼は二度目の住まいとしてクリンの町の外れを選び、静かな場所で隠者のような生活を送っていました。
「寂しい部屋で、一度も勝ったことのない三番勝負に、すべて勝つことを願いながら……」と、友人がその頃の彼の生活を書き残しています。
そんな環境の中で、彼の最後の天才の炎が燃え上がり、六番目の交響曲「悲愴」が誕生したのです。
この作品には、1893年8月31日という日付が記されています。
出版社へ送った手紙に「他のどの作品よりも自信がある」と綴ったこの交響曲は、最初は「標題交響曲」と名付けようとしていたものを、弟の助言で「悲愴交響曲」と改めました。これこそが、チャイコフスキーの全人生を締めくくる自伝であると言われ、一方で、救いようのない絶望感から「死の予感」を感じさせる不思議な傑作とも言われています。
この曲は、チャイコフスキーが生まれつき抱えていた憂鬱をすべて計算し尽くしたようなもので、最初から最後まで高い緊張感に包まれ、誰も知らない深い苦しみを掘り下げ、人間のあらゆる希望に「終わり」という封印を押したような曲だと言われています。
この交響曲を聴く人は、どんなに深い絶望や悲しみに沈んでいても、「自分はまだ幸せなほうだったのかもしれない」と感じることでしょう。
チャイコフスキーの悲しみは、それほどまでに深く、どうしようもないものだったのです。

「悲愴交響曲」がモスクワで演奏されたその日、チャイコフスキーの突然の訃報が届きました。
自殺だったのではないかという噂もありましたが、実際には生水を飲んでしまったことが原因でコレラにかかり、亡くなったのでした。
「悲愴交響曲」の演奏を聴いた人々は、作曲者チャイコフスキーが亡くなったという知らせを聞き、涙を流しながらそれぞれの家路につきました。
それは1893年11月6日のことでした。

チャイコフスキーの音楽の素晴らしさは、誰もが共感できる悲しみの美しさを描いたことにあります。
彼の憂鬱さは、少し時代遅れで暗いものだったかもしれませんが、そこには嘘や見栄、飾った小細工など一切ない、ありのままの悲しみが溢れており、それが聴く人の心に深く、いつまでも染み渡るのです。
「くるみ割り人形」や「第四交響曲」のような明るい曲を書いても、チャイコフスキーの音楽には、どうしても隠すことのできない悲しい響きが底の方に流れています。
チャイコフスキーの音楽には、ロシア的な泥臭さや荒々しい情熱は少しもありません。
彼はあくまでヨーロッパ的で、ロマンチックで、バイロンのような詩的な雰囲気さえ持っていると言われています。
その感じやすく美しい心の色は、どんなに固く閉ざされた心でも、必ず動かしてしまうことでしょう。チャイコフスキーの作品とそのレコード

 チャイコフスキーの人気は、おそらくベートーヴェンに次ぐほどのものでしょう。
そのファンの多くは、言うまでもなく一般の大衆です。それだけ彼の音楽は多くの人に聴かれ、親しまれ、そして誰の心にも深く入り込む力があるということでしょう。チャイコフスキーがこれほどまでに親しみやすいのは、彼の音楽が気取っておらず、感傷的で、素直で、甘さや人の良さを隠そうとしないからではないでしょうか。それでいて形式は整ったヨーロッパ風でありながら、漂ってくる感情は土の匂いがするロシアの民族的なもの――独特の美しいメロディと、全体を包み込む哀愁が、聴く人の心を惹きつけてやまないのです。チャイコフスキーの良さとは、つまり「悲劇の美しさ」であり、彼自身の人の良さがすべての作品からあふれ出ているからこそ、多くの人に愛されるのです。

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