リストが古今無双のピアニストであり、革命的な作曲家であることが大きな魅力であったのは間違いありませんが、それよりも大きな原因は、リストの豊かな愛情と、類いまれな優雅さ、そしてその人間的な高さが、リストをあらゆる人の「崇敬の的」たらしめたからでしょう。
リストはその作曲を通してでも、多くの熱狂的なファンと、少なからぬ批判者とを持っています。
リストの作曲はルービンシュタインの意見を待つまでもなく、きわめて饒舌で表面的なところがあり、とりわけピアノ曲は技巧を重視しすぎるため、うんざりする者も決して少なくありません。
その人柄に関しても、かつて若き日のブラームスが、ヨアヒムの紹介でヨーロッパ音楽界の大御所的存在であったリストを訪ね、彼を取り巻く空気の虚偽と、付和雷同と、贅沢と驕慢(きょうまん)とに驚いて逃げ出したのは、あまりにも有名な逸話です。
リストの大げさなジェスチャー、儀礼、人をそらさないお世辞――すべてそれは、田舎者だったブラームスには我慢のならないものであったに違いありません。
しかし、それをもって直ちにリストを毛嫌いし、リストを排撃しようとする者があったならば、それはあまりにも早計です。
リストはそういった派手好きで、道徳的にはきわめて弱気でさえあったにしても、あらゆる人に寛大で、豊かな愛情と行き届いた同情とを持った、生まれながらの長者であったのです。
ある伝記作家はリストの豊かな愛情を讃美して、それは全く比類のないものであったと言っています。
彼は接する者だれにでも、満ちあふれるほどの親しさと愛とを注ぎかけずにはいられませんでした。
彼の教養の良さと、その品性の高さがそうさせたのでしょう。
どんなに冷淡で厳格な人でも――時にはリストの敵でさえも、ついには彼に魅了されて、その熱狂的なファンの一人にならずにはいられなかったのです。
リストは友人としてはこの上もない人でした。
彼は決して裏切ることも、約束を破ることもありませんでした。
弟子たちにとっても、リストほど親切な師はあり得ず、友人たちにとって、リストほど頼もしい男はいませんでした。
リストの世話好きは実に抜群の美徳でした。
ポーランドの青年ショパンがいかにリストの恩恵でフランスの音楽界にデビューしたか、映画「別れの曲」は嘘八百の筋書きであるにしても、その心意気だけでも伝えています。
当時、ヨーロッパ中の音楽界を敵に回して戦うような状況だったシューマンは、リストに激励され、後援されてどれだけ助かったか分かりません。故郷のフランスではなかなか良さをわかってもらえなかったベルリオーズの「幻想交響曲」を、ワイマールという町で演奏会を開いてそのすごい芸術性を紹介し、まずはドイツの人たちに理解させてあげたのも、このリストでした。
苦労が続いていてなかなか日の目を見なかったワーグナーを元気付け、その難しくてたまらない名作を上演して、世の中に広く知らしめたのもリストです。
あの「タンホイザー」や「ローエングリン」も、リストの助けがなかったら、あんなふうに順調に人々に受け入れられることはなかったでしょう。
リストは、生まれながらにして「人をねたむ」という気持ちをまったく知らなかったと言われています。
「嫉妬(しっと)を知らない天才」――これほど高貴で素晴らしい存在が、この世の中にあるでしょうか。
彼は、誰かが成功したときに自分のことのように心から喜べる、あたたかい真心と大きな心の広さを持っていました。
まるで昔の江戸っ子(えどっこ)のように、人から何かを頼まれると「いやだ」とはどうしても言えないお人好しだったのです。
彼の財布のヒモは、誰かを助ける必要があると感じさえすれば、いつでもパカッと開きました。
ウィーンの街にあの立派なベートーヴェンの記念碑を、ほとんど自分一人の力で建ててしまったのもリストでした。
一人の音楽家の仕事として、それは決して簡単なことではありません。
ある田舎の町にリストが行ったとき、ちょうどその町で、リストの「お弟子さん」を名乗る女性のピアノリサイタル(独奏会)が開かれていました。
リストはその女性ピアニストの名前など聞いたこともありませんでしたし、もちろん自分の弟子にした覚えもありません。
不思議だなと思いながらホテルの部屋に入ったリストのもとに、まもなく一人の若い女性がやって来ました。
その女性こそ、リストの弟子だと嘘をついて宣伝していたピアニスト本人でした。彼女は涙を流しながら、「先生のお名前だけでも借りなければ、私のピアノなんて誰も聴きに来てくれないのです」と申し訳なさそうに謝るのでした。
リストはゆったりとした態度でうなずきながら女性を優しくなだめ、ともかくホテルの部屋にあるピアノでその日の夜のコンサートで弾く予定の曲を弾かせました。そして、演奏のコツについていくつかアドバイスをした後で、こう言ったのです。
「これで私はあなたにピアノを教えたことになったね。
これからはもう、『リストの弟子』と言ってしまって少しも差し支えないよ」
そう言って、リストは彼女の白いおでこに――いつも出来の良いお弟子さんにしてあげるのと同じように、優しくキスをしてあげました。
その女性ピアニストの名前は伝わっていませんが、リストの親切なエピソードといえば大体いつもこのような感じでした。
リストの娘であるコジマと無謀な結婚をしたせいで、リストとは一時期気まずい関係になっていたワーグナーは、のちに岳父(がくふ)となったリストの人柄をこんなふうに讃えています。
「まるで十字架にかけられたキリストのように、リストはいつも、自分自身のためではなく、他の誰かを救うために準備をしていた」と。
リストのプライベートな行動の中には、まわりから文句を言われてしまうようなことも確かにたくさんありましたが、この見返りを求めないピュアな愛情は、ほかのどんな欠点をもすべて帳消しにしてお釣りがくるほど素晴らしいものでした。
輝かしい大成功
フランツ・リスト(Franz Liszt)は、1811年10月22日に、音楽家だったアダム・リストの子として、ハンガリーの小さな村に生まれました。
お母さんはオーストリア人です。
リストの子供時代は、いかにも天才っ子という感じの華やかなものでした。
9歳の少年ピアニストは、早くもお金持ちの貴族たちのめにとまり、お給料(年金)をもらう約束をとりつけて、次の年には音楽の都ウィーンへと移り、恵まれた環境の中で音楽の勉強に打ち込むことができたのです。
最初のピアノの先生であるチェルニーは、この天才少年をどれほどかわいがって鍛え上げたことでしょう。
リストのピアノ演奏における神様のようにすごいテクニックは、名指導者チェルニーのおかげであったことは言うまでもありません。
そのあとはサリエリという先生に和声学(コードの仕組み)や作曲の勉強を教わり、のちの「交響曲詩(こうきょうきょくし)の生みの親」となるための基礎を作りました。12歳のときにお父さんと一緒にフランスのパリへ行き、そこで人間としてのリストの仕上げをしてもらい、いよいよ世界中をめぐる華やかでまばゆい演奏旅行がスタートしたのです。
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