尾州の名剣士・青柳又八郎。腕前は明らかに天魔太郎を上回っていましたが、天魔太郎に「飛龍剣」という投げ太刀の妙技があることに気づかなかったのが、何よりの大きな手落ちでした。最後まで刀を抜かずにその術を隠し通した天魔太郎に、見事な勝利を譲る形となったのです。
第三番目の相手は、猫間犬丸という不思議な名を持つ少年でした。天魔太郎よりわずかに二つ三つ年上に見える、同じ前髪姿の美少年です。
黒紋付に白小倉の袴というキリッとした姿で竹矢来の中へ進むと、彼は袂(たもと)の中から一本の紐を取り出しました。それを空高く放り投げると、紐は北のやぐらのてっぺんに引っかかり、そのままクモの糸にも似た、銀色に輝く細い細いハシゴになったのです。
「来いっ、天魔太郎!」
犬丸は軽業の名人のように軽々とそのハシゴを登り、やぐらの頂上に立つと、扇を開いて天魔太郎を指し招きました。
「その儀ならば……」
天魔太郎は南のやぐらの下に立ち、しばらく空を見上げておりましたが、やがて懐から扇を取り出し、いっぱいに開いてサッと放り投げました。
「あッ、あれは?」
空に舞い上がった扇は、クルリと翻ると真っ白な雲に姿を変え、静々と天魔太郎の足元へ舞い降りました。
天魔太郎がそれに乗ると、雲はフワフワと浮かび上がり、彼を乗せたままやぐらの頂上へと運びました。そして雲は再び元の扇へと戻り、ヒラヒラと空を舞うのを、太郎は手にとって元の懐へと戻したのでした。
「ワーッ!」
という大歓声が、あたり一面に沸き起こりました。もとより天魔太郎の幻術は手ほどきのようなもので、実際にはただの群衆催眠術の一種に過ぎません。しかし、そのあまりに鮮やかな手際を目の当たりにして、竹矢来の外にいる大群衆からは、しばらくの間、割れんばかりの喝采と歓声が鳴りやみませんでした。
「おっ、やるな太郎。それならば」
北側のやぐらの上にいる猫間犬丸は、懐から懐紙を取り出すと、やぐらの下へ向かってポンと放り投げました。
「ああ、――」
するとどうでしょう。懐紙はみるみるうちに小牛ほどもある金色の毛をした大虎に姿を変えました。虎は目を怒らせ、鋭い牙をむき出しにして、ひと声高くほえると、南側のやぐらに向かって猛然と突進してくるではありませんか。
【龍と虎、水と火】
猫間犬丸が放った虎は、大地を蹴って小石を跳ね飛ばし、まるで一団の炎となって南のやぐらに迫ります。そして足場を踏みしめると、一気にやぐらの頂上へと飛びかかろうとしました。
まるで百枚の鏡を並べたかのような鋭い二つの瞳、火でも噴き出しそうな大きな口。
それは身の毛もよだつほどの恐ろしさでしたが、天魔太郎はそれを見るとニッコリと笑い、もう一度腰の萌黄(もえぎ)色の刀の下緒(さげお)をほどいて、やぐらの下へ飛びかかってくる大虎に向かってサッと投げつけました。
「わっ、こわいっ!」
矢来の外にいた女や子供たちが、思わず悲鳴を上げたのも無理はありません。
太郎が投げた萌黄色の紐は、空中で二度三度と躍ると、たちまち十数メートルもの長さを誇る龍に姿を変えました。龍はやぐらに半身をからませると、猛虎の頭上でタライのような大きな口をガッと開いたのです。
古木のような龍の体は、半分ほど雲の中に隠れていて、ところどころで炎がメラメラと燃え上がっています。虎はそれを迎え撃ち、天地も崩れんばかりに吠え立てましたが、龍の圧倒的な威力に気圧されたのか、まもなく尻尾を巻いて、北のやぐら、つまり猫間犬丸の足元へと逃げ帰ってしまいました。
それを追いすがる素振りを見せた龍の姿は、いつの間にやら元の萌黄色の紐に戻り、スルスルスルと天魔太郎の手元へと戻ってきました。実に見事な術でした。
「うん、しからば、太郎!」
猫間犬丸は悔しそうに声を上げました。
しかし、すぐに思い直して腰から扇を取り出し、やぐらの下へポンと放り投げました。扇は空中で二度三度と宙返りし、大地に落ちた瞬間、一団の燃え盛る火焔車(かえんぐるま)となって、ゴウゴウと音を立てながら南のやぐらへ迫ってきます。
二メートル四方もある巨大な火焔車は、周囲の草や藪、立木までも焼き払い、一気にやぐらごと焼き尽くそうという勢いです。
しかし、天魔太郎もただ黙って見ているわけではありません。
「なんのこれしき」
太郎はやぐらの下を見下ろしながら、空中に指で二つ三つと文字を書きました。するとみるみるうちにやぐらの四方から噴水が湧き上がり、たちまち数条もの大滝となって、唸りを上げて転がってくる火焔車を、まるで水晶のすだれのように優しく、しかし完全に包み込んでしまったのです。
水と火の激しい争いはしばらく続きました。
吹き上がる水蒸気が道灌山(どうかんやま)のあたりを一面に包み込み、一時的に夜のように暗くなりましたが、やがてその蒸気が一陣の風に吹き飛ばされると、そこには元の草と藪があるだけでした。道灌山の広場には、水一滴こぼれた跡さえ残っていません。
竹矢来の外からは、ドッと大きな歓声が上がりました。
これほど素晴らしい術比べは、どこへ行ってもそうそう見られるものではありません。
すると、竹矢来の外から北のやぐらの猫間犬丸めがけて、バラバラと礫(つぶて)の雨が降ってきました。
見物客に紛れ込んでいた虎吉少年や野州の熊五郎が、相手である猫間犬丸のしぶとさにひどく腹を立てたのです。
「コラ、手出しは無用だ。立ち合いの邪魔をする者は許さんぞ!」
やぐらの上から天魔太郎に怒鳴りつけられ、礫はピタッと止みました。
「よし、このうえは腕ずくで参るか」
猫間犬丸は、相手に助太刀がいると見て取ると、やぐらの上からヒラリと飛び降りました。さすがは非凡な体術です。
「それもよかろう」
続いて飛び降りた天魔太郎。二人は矢来の中ほどまで左右から近づき、ほどよい距離で踏みとどまると、鋭く相手を見据えました。
色白で端正、どこか高貴な雰囲気さえ漂わせる天魔太郎と、色が浅黒く、鋭く激しい気性の猫間犬丸。
年は二つ三つしか違わず、まさに申し分のない好敵手です。
一方は心外道人(しんがいどうじん)ゆずり、果心居士(かしんこじ)の流れをくむ幻術。それに対して犬丸の方は、悪鬼羅刹(らせつ)が使うという天竺(インド)流の妖術。
いずれも群衆催眠術の二つの型に過ぎませんが、流派が違えば、その争いもまた一段と激しいものとなります。
術と術の争いでは天魔太郎の方に分があり、猫間犬丸は明らかに負けを喫していましたが、今度は年齢と体力に任せて腕比べをし、一対一の勝負を挑もうというのでしょう。
「さあ、来い。今度は投げ太刀ではいかないぞ」
猫間犬丸は、早くも天魔太郎の「飛龍剣」を警戒して、刀を脇構えにし、体を低くしてヒタヒタと詰め寄ります。
「おうッ!」
天魔太郎も、今度は飛龍剣ではいかないと見たのか、素直に刀を引き抜き、青眼(せいがん)に構えて迎え撃ちます。
「ゆくぞ、それッ!」
猫間犬丸は大地を蹴り、まるで本当の猫のように高く飛び上がりました。天魔太郎のまっこうへ、よけもかわしもならぬひと太刀。
コメント