初級翻訳・幻術天魔太郎 第16話

幻術天魔太郎

「無礼者め、なんということをいたすのだ。近藤、水野、加賀爪、控えておらぬか!」
一人ひとりの名前を呼び上げ、頭ごなしに叱り飛ばすのです。
「どうも変だぞ」
「本物の上様ではないのか?」
なだれ込んだ近臣たちも、自分たちの無様な様子と、家光の落ち着き払った様子を見比べて、ただただ右往左往するばかりです。
そのときです。
「上様にご無礼があってはならぬ! 拙者がご案内申し上げたのは、天魔太郎が化けたニセ上様だ。上段の間に残っておられる上様こそ、まことの上様に相違ない!」
廊下を駆け抜けてきた松平伊豆守が、さすがに慌てた様子で叫びました。
伊豆守ほどの知恵者も、危うく本物の将軍家光を縛り上げさせるところだったのです。

ニセ家光をめぐる騒ぎは、どうやら無事に収まりました。天魔太郎の幻術といえど、これだけ大勢の者たちに固められては、おいそれと手出しはできません。
翌日は利根川の渡しを越え、古河までの八里(約32キロ)の道のりを、人間が作る壁のようにして家光を守り抜き、夕方までには本多大内記が治める五万石の城へと入りました。
ここに入れば、将軍家光の身は真に安心だ。どんな幻術も、ここまで手が届くまいと誰もが思い込んでいました。
ところが、天魔太郎にはそれの上を行く、不思議な術がたくさんあったのです。

最初は、城の櫓(やぐら)を守る見張り番たちが騒ぎ出しました。
「た、大変だ、大蛇だ!」
夕明かりにすかしてみると、何十メートルともしれぬ黄金色の龍が一頭、城の天守をぐるぐると二巻き半まいたうえ、古木のような首を、将軍家光の御座所がある天守閣下の大広間の窓へヌッと突き入れ、カッと開いた口から火炎のような舌をペロリペロリと吐き出すのです。
「おのれ妖怪め!」
近侍の武士たちが五人、七人と勇ましく八方の窓から飛び出し、城の狭間(さま)によじのぼって、大蛇の体をめちゃくちゃに斬りつけました。
さしもの黄金色のうわばみも、勇士たちの攻撃にズタズタに切り裂かれ、天守閣の上から石垣へ、さらには武者溜まりへとバラバラに散り落ちました。しかし、大地に落ちた姿を見ると、不気味な大蛇だと思っていたものは、なんの変哲もない麻縄の切れ端にすぎません。それを見極めると、天守閣の上から五、六人の声で、
「ワ、ハッハッハッハッハッハッ……」
と、高笑いの大合唱を浴びせかけるではありませんか。
それを皮切りに、さまざまな怪異が古河城の奥深くに休む家光を襲い、どんな術を使ったのか、ひと晩じゅう悩ませ続けたのです。

名僧天海の教え

日光ご社参の最後の宿は、下野国(今の栃木県)宇都宮、七万八千石を治める戸田山城守の城でした。
明日はいよいよ日光廟へのご参拝という前の晩、将軍家光の夕餉(ゆうげ)の膳も、ここでも無事には収まりませんでした。箸をつけようとするとお椀の中からいきなり火炎が燃え出したり、給仕をしていた小姓が顔を上げるとたちまち三つ目小僧になっていたりと、さすがの家光も耐えかねて、奥の一間へと姿を隠してしまいました。
「おのおの、ご用心召されよ。今夜はことのほか不穏でござるぞ!」
松平伊豆守が供回りの諸士に厳重な警戒を命じて歩くと、そのあとから、ポッポと全身がひと塊の火炎となって燃え立つ小猫ほどの火ネズミが、廊下を走り、長押(なげし)を渡り、幕の裾をくぐり抜けていきました。城中はたちまち火の海となり、あわてて刀を提げた近侍の武士たちが、その火ネズミに追われて右往左往に逃げ惑います。しかし不思議なことに、その炎は近づいても熱くなく、触れても焼けません。まるで映し絵(幻灯)のように、部屋いっぱいに火の映像を走らせているような具合なのです。

その騒ぎの中を、混乱する人波をかき分けて、天魔太郎と猫間犬丸の二人は、もはや姿も顔も隠すことなく家光を追って、奥の奥、城中にとりわけ用意された秘密の部屋へと飛び込みました。
障子を勢いよく開けてキッと睨みつけると、一本の灯芯がともる薄暗い燭台の下に、静かに黙祷する人影がありました。部屋の中は、プーンと沈香が焚き込められ、大騒動の城中とは別世界のような、不思議な静けさに包まれています。
「おのれ家光、覚えたか! この俺は駿河大納言忠長の一子、駿河太郎!」
「続くは大阪城の侍大将、塙団右ヱ門の孫、三郎丸! 祖父三代の恨み、思い知れ!」
天魔太郎と塙三郎丸の二少年は、それぞれの得物を振りかざし、左右両方から家光めがけてサッと振り下ろしました。
「待て、待て、待たぬか!」
家光と思われた人物がパッと被衣(かずき)を脱ぎ捨てると、それは麻の衣をまとった、枯れ木のような老僧だったのでした。「なにを!」
「えっ、聞き分けのない」
ムキになった老僧が水晶の数珠を空中にパッと振ると、不思議なことに二少年の刀は宙でピタリと止まり、引くことも、かわすことも、打ち込むことさえできなくなってしまいました。
「こうなれば!」
二少年は刀を投げ捨てると二、三歩しりぞき、幻術の印を結んでありったけの呪文を唱えました。しかし、老僧はそれを受け止めると、ニッコリと笑って念仏を唱えるだけです。どんな幻術も妖術もまったく効き目がなく、まるで石っころに向かって術をかけているかのようでした。
「やい、お前はどこの坊主だ!」
天魔太郎は歯ぎしりをして悔しがりました。心外道人から直々に伝授された幻術を、正面から受けて打ち破れる者など、広い日本に一人もいるはずがありません。
「駿河大納言さまのご嫡子と聞けば懐かしくもあるが、お気の毒なことに、邪法を修めて天魔鬼神の同類となり、この日本の静けさをかき乱し、ふたたびむごたらしい戦国時代に引き戻そうとするとは。天下万民のため、まことに許しがたい。私の愛着を捨てて、お前たちを調伏するほかあるまい」
「そういうお前は、いや、ご僧は一体何者だ?」
「太郎殿、忘れたのか。おん身は拙僧の膝の上で遊んだこともあるはず。……喜多院の天海じゃよ」
「あっ、天海大僧正! どうしてここへ!」
それはまさに天下の名僧でした。川越の喜多院を修め、日光山を経営し、上野の寛永寺を建て、徳川家康の軍師であり師父でもあって、三百年続く太平の基礎を築いた天海僧正だったのです。
その時、天海は百六歳。体はまるで枯れ木のようでしたが、学問と徳は世の中を圧倒し、その精神力は火のように燃え上がっていました。どんな魔法も幻術も、この大人物の前では指一本触れることさえできなかったのです。
「太郎殿が一味と語らい、将軍家光公に仇をなすと聞き、松平伊豆殿の急使を受けて、たった今江戸から駆けつけてまいったのじゃ」
「では、私の一念もご存じのはず。父大納言の敵である家光に、一太刀浴びせるのを邪魔するつもりか!」
「いや、それはならぬ。上様にも過ちはあったが、駿河大納言さまの過ちはさらに大きい。配流の地で亡くなられたのは痛ましいが、自業自得と言えなくもない」
「でも……」
「さて、聞き分けのない。一人の恨みを晴らすために天下をふたたび百年の戦乱に落とし入れ、万民を苦しめてはならぬ。それに、太郎殿は『百人の人を助けてからでなければ、将軍家光公を討つ気をおこしてはならぬ』と、心外道人に戒められたはず。……拙僧はなにもかも知っている。

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