初級翻訳・幻術天魔太郎 第15話

幻術天魔太郎

そんなことであたら命をすてるより、生きながらえて腕をみがき、きょうのはじをそそぐ気はないか」
 猫間犬丸は、熱心な調子でこういいきるのです。
まったく、武げいや幻術に負けて、いちいち腹を切るのはばかげた考えで、体面にこだわらずに、家と禄をすてて、技をみがくほうが、どんなに男らしいかわかりません。
「では、どうすればよいのだ」
 青柳又八郎は、脇差をサヤにおさめて、むきなおりました。
「天魔太郎どのにあって見るがいい。あれは非常な人物だ」

 五月七日は、三代将軍家光の日光ご社参、これはまた大へんな行事でした。
家光の行列のとおる道々は、まえの日からの煙どめで、ごはんをたくことはもちろん、病人があっても、くすりをせんじることもできなかったというげんじゅうさです。
そのうえ、往来はぜんぶとめられ道すじの家々は戸をしめさせて、すき間やフシ穴からのぞかないように、目ばりをしたというさわぎ、マコトにいまの人には考えられないほどの暴君ぶりです。
その行列は、ツユ払い(先頭)からさいごのひとりまで、二里三里にもおよぶ長さ、美々しくいかめしく、ものものしいなかに、将軍家光、金銀をちりばめたお召かごに乗って、千住の大橋にかかりました。
この橋をわたれば江戸のそとで、お代官領になります。
家光の乗物がちょうど大橋のなかほどにすすんだ時、
「や、や、あれはなんだ」
 かごわきの武士、旗本八万騎の中からよりだした勇士が、おもわず声をあげたのもむりはありません。
わたりかけた大橋のむこうがわ、北千住よりの橋の上に一団の火焔がもえあがるとみるや、たちまち大輪の火の車となっておともの人々を川に追いおとし、うなりを生じて家光のかごのほうにちかづくのです。
「ひっかえせッ」
 供わきの老臣が声をかけると、家光を乗せたかごは、その場からうしろをむいて、一気にかけもどろうとしましたがいけません。
江戸よりのほうからも、おなじく一団のほのおが橋の上いっぱいにもえて、家光のかごを前うしろからはさみうつのでした。
「もどってはならぬまっすぐに行けッ、えッ、行かぬかッ」
 家光はさすがにはじをしる人間でした。
怪火に橋の前後からやきたてられると、すすむもひくもほのお。
このうえは猛火をくぐってすすむほかはないと思ったか、乗物の扉をたたいて、声をはげまします。「おそれながら、軽はずみなことはなりませぬ。この場は、この老いぼれにおまかせくだされ」
 かごの前に立ちはだかり、片方のあぶみから足をはずしてそう挨拶したのは、老臣の大久保彦左衛門忠教でした。
 このとき彦左衛門は七十九歳。真っ白な頭にトンボのような小さなちょんまげを結い、麻の裃(かみしも)を身にまとい、一丈二尺(約三・六メートル)の朱塗りの槍をついています。シワだらけの顔に似合わず、その気力だけは若い武士にも負けない勢いがありました。
「おお、彦左か。これは一体どうしたことだ」
 家光はかごの中から問いかけました。
「火のないところに火があるなど、魔術か妖術か、はたまた子供だましの手品にすぎませぬ。はばかりながら、この彦左衛門が綺麗さっぱり踏み消してごらんに入れましょう」
「では、頼むぞ、彦左」
「わが君には、静かにそこにてご覧くだされ。――やあやあ、怪しげな術を使う虫ケラども、耳をかっぽじってよく聞けよ。このそれがしは、トビの巣文字山の初陣より、一度として遅れをとったことのない、大久保彦左衛門忠教である――」
 天下の三大音と恐れられた彦左衛門は、馬上槍をしごいて名乗りを上げると、行く手を阻む火炎めがけて、一直線に乗り込んでいきました。
 火炎と見えたのはもとより天魔太郎の幻術であり、人間の目はだませても、馬の目までだますことはできません。彦左衛門が朱塗りの槍をめちゃくちゃに振り回しながら炎の真っ只中を突き抜けると、炎はパッと消え失せ、あとには何事もなかったかのように橋と欄干だけが残りました。
 そのあとに続いて家光のかごは、崩れた供回りの列を整えながら、静々と橋を渡りきりました。七十九歳の老武士、大久保彦左衛門の勇気と機転でその場は無事に済みましたが、この先また何が起こるか分かりません。大事をとって、陽の高いうちに粕壁(かすかべ)の本陣、見川安右衛門の屋敷へ家光の乗物を運び込ませました。
 一方、天魔太郎は千住の大橋で家光を逃しましたが、最初からこれっきりで諦めるはずもありません。新たに仲間に加わった猫間犬丸や塙三郎丸、そして妹の月子と知恵を絞って相談をしておりました。

 粕壁の本陣、見川安右衛門の屋敷は、将軍家光が急にやってきたためにしばらくは大混乱でしたが、それでも慣れた手つきで他の客をすべて立ち退かせ、大急ぎで支度を整えて、どうにかこのご社参の大行列、何百人もの受け入れを完了しました。
 それで一応はホッと胸をなでおろしましたが、その晩、家光に夕食の膳を運んだお小姓の二人が、老中・松平伊豆守(いずのかみ)のところへ顔色を変えて駆け込んできました。
「大変です! 大変でございます!」
「何事だ、騒々しい」
 伊豆守は落ち着き払って振り返りましたが、わけを聞くと彼も驚かないわけにはいきませんでした。
「上様のお姿が、いくつにも見えております」
「何を申す。そんなバカなことがあるものか」
 松平伊豆守は小言を言いながらお小姓について行くと、上段の間に厳然と構えた将軍家光の姿が、右にも左にも、三人まで同じ顔、同じ態度、同じ服装で座っているではありませんか。膳番のお小姓たちが肝をつぶしたのも無理はありません。数えてみると、そこに威張っている家光は三人。どの家光の前に膳を置いていいのか、見当もつかない状態でした。
「おそれながら申し上げます。いずれが上様でいらっしゃいましょうか」
 松平伊豆守はおそるおそる御前に平伏しました。
「何を申すか。余が家光じゃ」
 右端の家光が、何が何だか分からないといった様子で答えると、
「何を申すか。余が家光じゃ」
 真ん中の家光も、同じ調子、同じ声で繰り返すのです。
「三人とも、いずれが本物か見分けがつきませぬが、最初にものをおっしゃった方を本物の上様と存じます。なにとぞこちらへ、御座を移されますように」
 松平伊豆守は進み出て、右側の家光を促し、手を取らぬばかりにして別室へと案内しました。それから宿直の侍たちをはじめ、供回りの中から腕利きを三十人ほど選び出し、上段の間を二重三重に囲ませました。阿部豊後守忠秋(あべぶんごのかみただあき)が大将となり、こう命じました。
「やあやあ、上様のお姿を汚した不届き千万の曲者ども、絡め取って目にもの見せてくれよう。狐狸か化け物か、魔法か妖怪か、さあ正体を現せ!」
 おそばの猛者たちは、たすき掛けをして刀を抜き放ちました。縁側を踏み鳴らし、周囲の障子や唐紙をバタバタと突き倒して、八方から二人のニセ家光がいる上段の間へとなだれ込みました。すると、左側にいた家光は、素早く段を降りると、胸の前で印を結びました。すると見る間に猫間犬丸の姿へと変わり、もうもうと立ちのぼる煙の中にその身を隠してしまいました。しかし、残る一人、真ん中に座っている家光は、印を結ぶこともなく、顔つきも変わらないまま、こう言いました。

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