さて、僕に会う気になってみたら、娑婆気(俗世への未練)が出たというわけか、心中もひとつの心なら、生きることもひとつの心で(彼はそういう表現を用いたのです)心中も、その日の汽船と同じように諦める方が自然らしい。そのうえ女と別れる方が、なお自然だと思ったそうです。この土地で、この日なら、別れられると思わずにいられなかったそうですね。そこで一思いに別れ話を切り出してみると、女も意外と落ち着いていて、素直に同意したのが、夢のように不思議でならないと言っていました。別れる場所を探すために、心中に出かけたようなものさ、と喜楽は笑っていたのです。女を乗せた上野行きの急行列車を見送ると、早速ここへ駆けつけてきたのですが、僕を認めると、憑かれたようにとりとめもなく喋り出し、ヘラヘラ笑い出したりする様子が、あの商売の人ですから、わざとでなくとも芝居がかった不自然な誇張が目立つのですね。そのくせ何か際どい危うさが、チラチラ漏れて、薄い刃物の刃のような薄気味悪い感じもあるのです。そのうち、いくらか落ち着いてきて、とりとめのなかった心中の話を、ポツポツ語り始めていたのでした。ひどい吹雪の日なのです。あのときの風の唸りを、今もはっきりと耳に聞くことができるほどです」
卓一は、聞きたくなかった。あくびがしたくなるのであった。出社早々、縁起の悪い話ばかりだった。暗さは、あまりにも退屈だ。……
夜がきた。約束のダンス・ホールへ彼は行った。心はひどく浮ついていた。ポケットに小銭の音をジャラジャラ鳴らし、口笛を吹きながら、酒場の扉を肩先でぐいと押し開けて入っていく映画の主人公のようだ。女はいた。踊り子と踊っていたが、彼を認めると、目で笑った。曲が終わると、彼の前へ歩いてきた。その顔が近づけば近づくほど、夢の中にいるような、遠い気持ちが激しくなるのだ。夢にのみ知りうる、現実を鵜呑みにしている多彩な心が、彼に生まれていたのであった。この現実と慣れ親しんだ気安さばかりが、すべてであった。予想通り新鮮な心の誕生を見出して、彼は自分を有頂天にするためにますます拍車をかけているのだ。
「踊りましょう」と女が言った。
「踊ったことがないのです」と彼は答えた。
「意地の悪いこと、おっしゃるものではありませんわ。田舎のホールが、お嫌いですの?」
「踊りたいとは思っています。しかし、ダンスホールをのぞいたことすら、一度もなかった始末です。昨日のここが、はじめての経験ですから」
女の目に半信半疑の色が浮かんだ。そんなことあり得ない、とその目が言おうとしているのだ。しかし女は当惑して、やがて笑い出していた。
「それじゃ、私」と女は突然言いかけて、吹き出しそうになるのであった。
「え?」
「ここを出ましょう」女はすでに歩いていた。卓一の素朴な挙動が、いくらか執拗すぎるほど、中断した女の言葉をうながしていた。
それじゃ、私。……どうしたのです? 卓一は、びっくりしているわけでもなかった。踊りを知らないという、たかがそれだけのことにすぎない彼の返事が、女に与えた新鮮な動きについて、彼は考えていたのであった。好色のみを尺度にして。魔性の心に秘められた妖しい幼なさのひとつであろうか。とにかく、しかし、新鮮だ。女に寄せる好奇心が、決定的なものになろうとしていた。そしてもはや抑えがたい愛着が、いくらか野暮に見受けられるほど執拗な挙動となって、中断した女の返事をうながしていたのであった。
要するに女は――と、卓一は自分の心に言い聞かせることが大切だった。この新鮮な情感だけで十分なのだ。俺にとって、それが女のすべてなのである。むしろそれ以上のどのような宝も女に求めてはいけないのだった。しかし求めてすぎていた! 結局それらの高貴なものは、女に備わるものではないのだ。自己の所有に属するところの何かの投影にすぎず、結局自分に恋をしかけているようなものだ。結局のところ、恋の中に孤独と自殺を求めているにすぎない、ということなのだろう。
「雪国の冬には、生気なんてものはありませんわ」
歩きながら、女は冷ややかに言った。
もしそれが独り言であったなら、その冷たさの中に、どこか親しみを感じることもできたかもしれない。だが、それは卓一に向かって投げかけられた言葉だった。それゆえ、その冷たさは卓一を刺し殺す言葉のようだった。女は、中断した自分の言葉を促す卓一の素朴な振る舞いや、あまりにも執拗で野暮ったい心を、取り付く島もないほど遠くに突き放していたのである。
女は、なおも冷淡に言葉を続けた。
「東京からお帰りでしたら、ここはまるで墓の下のようでしょう」
卓一はしかし、ほとんど平気だった。彼の有頂天な気分に、衰えの気配はなかった。女の返事など、彼には不要なものなのだ。彼はただ、答えを求めるという行為によって、自分の愛着を示すことしか知らなかった。勝手なことを言えばいい。冷たくても、温かくても。どうせ言葉なんてものは、装身具のひとつとしては、いくらかナンセンスな存在なのだ、と卓一は腹の中で呟いていた。
それにしても、これもまた確かにひとつの「新鮮さ」ではないか。色情を拒絶するような冷たさ。それもまた情欲の秘密のひとつだった。女の幼さの表れであれ、あるいは偽装の下手な狡猾さの表れであれ。人とその情欲は、いつもその悲しい相克ゆえに美しい。そこまで蓋を開けてみれば、これもまた嫌味で月並みなことではないのかもしれない。しかし、その月並みさだけで十分だった。そのほかに、月並みでないどんな神秘があるというのだろう。いわゆる神秘なんてものは、俺にはよっぽど退屈で、鼻持ちならない月並みなものにすぎない。
――そして卓一は、突然、女の愛おしさを身近に感じる思いがして、その情欲の危うさに驚くのだった。すると、今の有頂天な気分の不自然さに、いくらか興ざめしてしまうのだ。
踊り場の階下にも酒場はあったが、二人は古町通りへ出た。古町通りは、新潟の銀座である。しかし、冬の訪れが近いこの通りには、人も灯りも、もとより多いはずがなかった。寒々とした闇と気候が、もはや世界のすべてだった。
――あっちを向きなさいと言えば、素直にあっちを向くのね。こっちを向きなさいと言えば、素直にこっちを向くだけのことだ。誠実なんてものはない。反対の手間がかかって、うるさいだけのことでしょう。
恐ろしいほど冷たい。こんなに突き放されていて、どうしたらいいのだろう。
「あなたの心を、はっきり言いなさいよ。男らしく」
半年ほど前のことだった。そのころの卓一は、ひとりの女との憂鬱な一年あまりの生活の果てに、その近づいた破綻の重さに苦しんでいた。そのころ聞き飽きた言葉のひとつがそれだった。「自分の心を言いなさいよ、男らしく」と言われながら、彼は結局、ほとんど語りはしなかった。未練がましい女の言葉の相手をして、「それなら別れよう」と答える甘さも不快だった。黙っていたって、別れることはできるのだ。すでに心は別れていた。言うべき言葉は、もはやない。
「路傍の心。それが俺の生涯の心なのだ」と、彼は自分に言い聞かせていた。家の心なんてものは、作りものにすぎない。もし家の心が、路傍の心と同じものであり得ないのなら。冷たさ。
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