角さんのおかげで本当によくしていただいたようで。帰ってきてどんな狂言だったか聞いたら、『何だか分からないけれど、弁慶縞の着物を着た侍が出てきて、脇差の頭に徳利をぶら下げていた。随分とお酒が好きな侍だったわ。そのあと機織りの女が手巻を持って出てきたら、その娘を侍が脇差で突き通して、女が髪を振り乱して目を回してひっくり返った』なんて言うものですから。あとで聞いたら『妹背山』の狂言だったそうで」
角「ははあ、ろくなお構いもできず申し訳ない。家のおじいさんはいますかな?」
婆「はい、おりますよ。新田の角さんが見えましたよ」
爺「やあ、これはご無沙汰しておりました。あんたにお見せしたいと思っていた青毛の馬でね。三歳五ヶ月になる、実にいい馬ですよ。今すぐ連れてきますから待っていてください」
角「ほう、馬かね」
爺「まあ、物を見てください」
そう言いながら引き出してきたのは、まさに駿馬と呼ぶにふさわしい名馬でした。
角「やあ、これはいい馬だなあ」
爺「あんた、この馬は本当に珍しい馬でね。一度も病気ひとつしたことがないし、くしゃみひとつしたことがない。どれほど引き回しても、足に血豆ひとつできない馬です。見てくださいな」
角「それじゃあ、見せてもらおうか」
そう言いながら、歯を見たり爪を見たり、前足を撫でたりしてしばらく観察していました。
角「こりゃあ、買いたいね。いくらだ?」
爺「五両と五粒でどうでしょう」
角「高いなあ」
爺「高いなんて、五両五粒でこの馬はなかなかありませんよ」
角「そうか。俺は今金は持っているんだが、千鳥村へ田地の交渉に来た帰りなんだ。もし田地の売買がまとまらなければ、帰りにすぐ買って帰るから。とにかく手付けを置いていくので、この馬を置いておいてくれないか」
そう言って懐から取り出した胴巻は、木綿か紬かは分かりませんが、スルリと滑り落ちた金は七、八十両はありそうでした。その中から一両取り出して、
角「さあ、これを置いておくよ」
そう言って残りの大金を懐にしっかりとしまい込み、
角「他へ売らないように頼むよ。それじゃあ」
婆「左様でございますか。帰りにはぜひお寄りくださいね」
先ほどから二人の様子を岸田(右内)がなんとなく見ていましたが、そこへ落ちたのは大金でした。「ああ、ある所には有り余るほどあるものだ。あの金さえあれば主人を世に出すことができ、ご恩返しもできるものを」と思うと、顔に吹き出物ができるほど欲しくてたまりません。いてもたってもいられず、気がつけば、いつの間にか追貝村までその百姓の後を尾行してきてしまったのです。百姓はそれとは知らず、谷あいの道へと差し掛かりました。そこへ、右内が声をかけます。
「もし、旦那様! 旦那様!」
「なんだい」
「へえ、先ほど大原村の茶店で馬をお買いになり、手付け金をお出しになるのを見ておりました。私は旅商人でございます」
「ほう」
「初めてお目にかかるのに、このようなことを申し上げて恥ずかしいのですが。私は元は武士でしたが、今は商人となり、岸田屋宇之助と申します。私の主人がわけあって浪人となり、この先の小川村に住んでおります。昨日、思いがけず再会したのですが、『五十両の金があれば世に出ることができるから、なんとか工面してくれ』と頼まれました。しかし、今の私の身分ではとてもそんな大金を用意できず、困り果てていたところでした。あなたが手付けをお出しになった時、懐にある金は七、八十両はあると見受けました。誠に強引なお願いで恐縮ですが、必ずお返しいたします。来年の三月まで、五十両をお貸しいただけないでしょうか」
そう言われて角右衛門は驚き、そっと懐に手を入れて胴巻(お金を入れた腹巻き)を押さえながら言いました。
「なんだと、五十両貸せだと? 俺は数坂(かずさか)峠を何度も越えるが、お前のような盗賊がいるから旅人は難儀するんだ。さあ、名主のところへ連れて行くから来い!」
「盗賊などではございません! 名前まで明かしてお願いしているのです。もし信用してくださるなら、これから主人のところへ参りまして、二人で連名で借用証文を書きます。どうしても主人を世に出してやりたいのです。神に誓って損はさせませんから、何卒来年の三月までお貸しください。印鑑を押して証文を入れますから、ねえ、お願いです!」
「馬鹿野郎! 五十両もの大金を、お前のような初対面の奴に誰が貸すか! 主人のためだの忠義だのとほざきやがって、俺の金に目をつけた盗賊め。さあ、名主のところへ来い。行くか行かないか!」
角右衛門は拳を固め、右内の横面を殴りつけました。顔から火が出るほどの衝撃でしたが、右内は耐えます。
「あいたたた……。おっしゃることはごもっともですが、こうして身分を明かしてお願いしているのです。私の体など、主人のためなら十回や二十回打たれても構いません。主人は立派な侍で、あんな場所に埋もれる人ではないのです。江戸へさえ戻れば、百石取りの身分になることなど造作もございません。主人さえ世に出れば、すぐにお金の融通もつきます。もっと早くお返ししますから、どうか貸してください!」
「黙れ! まだ俺に殴られたいのか!」
「へえ、お打ちなさい」
「さあ、ここへ来い!」
角右衛門は右内の髷(まげ)をつかんで引き寄せ、二十回ほど立て続けに殴りつけました。頭が割れるほど痛いのですが、右内は耐え抜きます。
「それで納得いただけるなら、主人のところへどうかご一緒してください」
「馬鹿野郎! まだ金を借りたいと言うか! 名主へ連れて行くのが面倒だから殴りつけてやったんだ。行けと言ったら行くのか行かないのか!」
そう言いながら、角右衛門は力任せに右内の胸を蹴り上げ、横面をひっぱたきました。右内はその場に倒れ込みます。
日頃は穏やかな右内ですが、あまりの仕打ちにカッとなり、思わず道中差(刀)に手をかけて角右衛門を睨みつけました。
「お前、脇差のようなものをして、俺を斬る気か!」
「斬る気などありません! 打たれれば金を貸すと仰ったから打たせたのに、打った上に足蹴にし、金も貸さないとは。私も武士の禄を食んだ身、見ず知らずの土民に足蹴にされて、黙っているわけにはいきません。どうしても貸していただけないのですか!」
右内は脅してでも借りようと思い、刀をピカリと引き抜きました。百姓である角右衛門は驚いて、トタトタと逃げ出します。右内はその跡を追いかけました。角右衛門は運悪く木の根に躓いて倒れ込みました。右内は「これ幸い」とばかりに上にのしかかり、百姓の頬に抜いた刀を突きつけました。
「さあ、貸してください! 人を足蹴にするとは、あまりにひどいではありませんか。さあ、貸してください。どうあっても貸してくれなければ、やむを得ずお前を殺さなければなりません。さあ、貸してください! 貸さないと殺しますよ! お前さんは五両五粒の馬を買うような立派な人でしょう? 貸してくれ、貸せないのか!」
そう責め立てられても、百姓は命よりも金の方が大事なようで、「盗賊だ! 盗賊だ!」と叫ぶ声が山々に響き渡ります。しかし、助けてくれる人は誰もいません。
ここは追貝(おっかい)村の入り口。西には穂高山、東には荒山、北には火打山、南には赤城山。
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